カントにおいては、人間の活動分野ごとに異なった原理が機能する。純粋理性批判における対象の認識には、感性と悟性、実践理性批判における倫理的実践においては実践理性、判断力批判においての美的判断は感性によって起動する理性が無限を把握し、それを埋めていく想像力(構想力)が終着点を見いだせない時に「崇高」が経験されると行った具合である。コンピュータの例を著者は引いて、ワープロソフトやインターネット閲覧ソフトは与えられても、OSのないコンピュータのような状態だと言っている。これを批判する形で、フィヒテは、そのOSを絶対的自我としたし、シェリングは「客観」に求めたというわけだ。この例え話は実にうまいと思う。
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