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蒋介石は、当時中共の討伐(南昌)の真っ最中で、国民党広東派とも戦っていた。日本と協調外交すればば、双方から売国奴批判を受けると判断、また張学良が対日交渉を始めるのも警戒し、公理に訴えるため満州事変を国際連盟に委ねた。で、派遣されたのがリットン調査団である。大恐慌後イギリスは、中国のことはもう日本に任せたい、という想いがあったようだ。背景には賠償金を巡るドイツとの対立で手一杯。リットン調査団にはそういう背景がある。
調査団の委員長は、英の元インド総督の息子でベンガル知事だった植民地経営に詳しいリットン伯爵。米からはキューバ占領統治とボリビアとパラグアイの国境紛争仲介の経験があるマッコイ少将。仏から天津やベトナムに駐屯していた植民地の軍事関係に詳しいクローデル中将。独のシュネー博士は対戦前の東アフリカ総督で植民地政策の専門家。伊からは老練な外交官のアルドロバンディ伯爵。これがリットン調査団の顔ぶれである。
報告書は、意外に経済面では日本に好意的であったが、意図が異なる軍にとっては満足できるものではなく、流石に連盟規約違反、不戦条約違反などとは書かれていないが、合法的な自衛の範囲を超えていおり、満州国建国(1932年3月建国)は民族自決の結果生み出されたものではない、と記されていた。吉野作造は、この報告書をヨーロッパ的正義の常識と評している。が、日本国内の世論は、大恐慌の影響もあり、”どれほど苦しくとも不正はするまい”という常識や余裕が失われ、調査書が完成する前に衆院で満州国承認決議を全会一致で可決している。軍部を恐れての勇ましい発言も出ていた。
連盟脱退の時の外相は内田康哉で、強硬策をとれば中国の融和派(蒋介石も含む)が折れると踏んでいた。天皇や内相の牧野伸顕はこれを不安視していたらしい。全権大使だった松岡洋右も同様で、イギリスなどの(日本の連盟脱退を避ける)仲介の労を電報で訴えている。しかし、内田の策を陸軍が潰した。張学良軍のいた熱河省に侵攻したのである。海軍の大秀才・斎藤首相がこれは大問題である、と気づく。陸軍は満州国内での軍事行動と見ていたが、連盟は満州国を認めていないので、熱河省は明らかに中国領土であり、条約違反になる。連盟規約の第15条と第16条には「国交断絶にいたる虞(おそれ)がある紛争が発生した時は、当然他の連盟国に対し戦争行為をなしたるものとみなす」となっており、こうなると万事休すである。除名+全連盟国の敵=経済制裁となる前に、総会で勧告案が提出された場合、脱退という決断が閣議でなされたのだった。これが連盟脱退のプロセスである。…受験の日本史では、とてもここまで講じることは出まい。
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