2023年8月13日日曜日

WWⅠ:山東問題をめぐって

青島駅 ドイツ租借地の残り香 https://4travel.jp/os_shisetsu/10417602
WWⅠとくれば、総力戦である。実際に1000万人の死者と2000万人の傷病者が出た。対して日本では青島攻略での戦死傷者は1250人であった。加藤陽子氏の「それでも、日本人は戦争を選んだ」第3章:第1次世界大戦についてののエントリー。

列強の植民地獲得の動機は、貿易上の利益、キリスト教の布教、国内の人口過剰や失業問題のはけ口として等があったが、日本の場合は、スタンフォード大のマーク・ピーティ教授が指摘する安全保障上の利益が中心であった。WWⅠ後の山東半島のドイツ権益(というよりも膠済鉄道が重要だった。中国の内戦への介入が、青島へ上陸すれば一気に容易になる故。)、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島、旧来の台湾、1910年の韓国併合をあわせて、海上輸送のルートを確保しているわけだ。

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日本の参戦を強く押したのは大隈内閣の外相・加藤高明で、長く日本の先生であったドイツに宣戦布告することを元老・山縣有朋は躊躇していた。日英同盟が参戦の理由とされているが、最も対中貿易量が多かったイギリス自体はかなり警戒的だったらしい。日本が参戦すればが中国への影響力を増すであろうと懸念した。また南洋諸島の領有は、アメリカにも脅威を与えた。(=ウォー・スケアー:根拠のない怖れ)英米は参戦には反対しなかったが、対中国の問題で強く自制を求めてきており、それが国会でバレ、主権侵害ではないか大騒ぎとなったし、またパリ講和会議でも米中は山東問題について排日的な議論を進め、北一輝に「排日の泥を投げつけられる」と評されている。報道主任として参加した松岡洋右は、「山東問題は批判されても仕方がない、二十一箇条の要求を袁世凱に叩きつけて(本来はドイツから取り上げ、中国に返還する約束だったのに領有した)山東に関する条約を無理やりにでっち上げた。」と真っ当な苦悩を手紙に書いている。近衛文麿も、「所詮力の支配が鉄則であり、日本が提出した人種平等案は実力不足故に否決された」とぼやいている。

このパリ講和会議では、ウィルソンの理想主義が喧伝されがちだが、大揉めに揉めた山東問題で、英仏米で立場が異なっていた。アメリカ(ウィルソン)は中国の主張を容認したが、仏のクレマンソーは、戦後の植民地分割について、日仏英伊露の間でお互いに認め合うという1917年に結ばれた秘密条約(露→ソ連が暴露)を持ち出した。ちょうど地中海の警備に日本が出てきたときに結んだもので、「日本が欲しいといったものにイエスと言わなければならない関係である。」と言い、英語のできない彼はその後一言も発しなかった。(いわゆる聞く耳を持たない態度である。)英のロイド=ジョージは、「(1917年の)ヨーロッパは大変苦しい状況で、日本は助けてくれた。中国への同情は疑う余地はないが、一度交わした協定は、思い通りにならなかったから破いてしまうような紙切れではない。」中国代表の反論をさえぎって「もしドイツが勝利者であったなら、ドイツが世界の支配者になっていた。中国もドイツの支配下になっている。アメリカは、まだこの当時ドイツに対抗する準備はできていなかった。」これには、ウィルソンも中国代表も黙るしかなく、日本の山東領有は是認されたらしい。

国家改造という視点で見ると、日清戦争後は普通選挙が必要という程度でいわば点。日露戦争後は実業家の議員などによる経済的運動で、いわば線。しかし、WWⅠ後は、パリ講和会議に自費で参加した少壮政治家やジャーナリストの影響もあって面に拡大したのである。欧米と日本の政治制度や社会制度の差を実感した彼らは、大きな危機感を持ったのだ。普通選挙や労働組合の公認、地主優遇の税制を改革、朝鮮・台湾など新領土の統治の刷新、既成政党の改造といった要求が出てきた。

その最も大きな分水嶺は、1918年、元老・山縣有朋は反対していた政党内閣(原敬内閣)を容認したことではなかったか。

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