天皇の戦争責任と大きく関わる統帥権について。この統帥権成立には山縣有朋が強く関わっている。西南戦争夜の翌年、この近衛砲兵隊が給料への不満から起こした竹橋騒動と、自由民権運動が軍隊内に波及しないよう、政治から軍隊を隔離するという発想から来ている。参謀本部長になった山縣は軍令は参謀本部長の管知するところとの規則を定めた。これが帝国憲法における天皇の統帥権に繋がっていくのだが、山縣は西南戦争において、軍事面でも政治面でも大きな影響力を持った西郷を念頭に、国家のためには、軍事面と政治面の指導者を分けたほうが安全だと考えたようだ。しかし、外交と軍事が緊密な連携をとれないという厄災をも生んだと著者は述べている。(序章)
太平洋戦争当時の情報統制について。地方によっては戦死者名が新聞の地方版に載っていたが、それらを合計することはできないようになっていたし、海外からの短波放送も通信社や新聞社、国の機関に限られており、傍受できなかった。(天皇ご自身は短波で情報を得ておられたようである。)しかし、株式市場では、1945年2月あたりから軍需関連ではない民需関連株が上がっている。また壊滅的な被害を受けた船舶関連株が上昇している。これは、投資筋が戦争が終わるという見通しをもっていたという証拠である。まあ、株式市場が開いていたということ自体が驚きであるが…。(太平洋戦争)
終戦時、200万人が満州にいた。満州への開拓移民は、長野県の例で、多い村で18.9%。養蚕地帯で、アメリカ向けの生糸生産が世界恐慌で大打撃を受けた地域ほど多く、他の作物への転業がうまくいった地域は少ないそうだ。国や農林省が1938年から満州分村移民募集を始めた。これは村ぐるみの移民をすれば助成金を出すというしくみ。県の拓務主事などが熱心に誘い、結果的に引揚げ時に多大な犠牲者を出したという。中には助成金で人命に関わる問題を用意に扱う国や県に反対した見識のあった村長もいたらしい。(太平洋戦争)
最後に、アメリカの歴史家:アーネスト・メイの「歴史の教訓」によると、F・ルーズベルトが、日独伊に対して無条件降伏以外認めなかったのは、WWⅠの時、ウィルソンが提案した14か条をドイツが受託し休戦したが、講和会議で英仏の反対を受け、ドイツに休戦に応じなければよかったという強い不満感情を一貫して持たすに至ったという歴史的教訓であったという。ソ連がWWⅡ後にアジアに影響力を増すことは容易に予期できたはずだと、カー氏は批判的だ。(序章)…ちなみに、大恐慌へのニューディール政策だけでは、有効需要に対応しきれず戦争による軍需でアメリカ経済が持ち直したのも事実である。
…日本の近代史における戦争について、いろいろ記してきた。それは、そのまま現在に繋がる。ブログ上でこれからじっくり考えてみたいと思っている。
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