バルバロッサ 赤髯王 https://www.greelane.com/ |
第二回十字軍(1147-49):きっかけは、十字軍国家の1つエデッサ伯国の陥落である。ベルナルドゥス教皇の勧説でフランス王ルイ7世、ドイツ皇帝コンラート3世も参加。しかし明確な戦略や協調性を欠き、ダマスカスを攻撃したが、さしたる成果もなく終了。
第三回十字軍(1189-92):エジプト(アイユーブ朝)のサラディンがイェルサレム王国を陥落させた事態を受けて教皇に召集された。皇帝フリードリッヒ1世(赤髯王=伊語でバルバロッサ)、フランス王フィリップ2世(尊厳王)、オーストリア公レオポルト5世、イングランド王リチャード1世(獅子心王:しししん王)が参加。総司令フリードリッヒ1世の不慮の死(小アジア・キレキアのサレフ河で溺死といわれる。卒中・暗殺説もあり)もあり、ビザンツ帝国との対立もあり失敗に終わった。ただし講和時に聖地巡礼の安全が確保された。…ここで面白かったのは、不慮の死を遂げたバルバロッサ(赤髯王)が、伝説化したことである。民間伝承で、彼は今も眠り続けており、ドイツの危機に際し目覚め繁栄と平和をもたらすとされていく。バルバロッサと聞けば、WWⅡ時にナチがしかけた対ソ戦の作戦名である。ここから来ていたのだった。こういう関連の発見こそが世界史の醍醐味だと思う。
第四回十字軍(1202ー04):主要国の国王が参加したが成果があまりなかった第三回十字軍から10年たち、インノケンティウス3世は新たな呼びかけたが、国王たちは参加を拒んだ。シャンパーニュで開かれた馬上槍試合で勧誘したら、シャンパーニュ伯を始め70人ほどの有力諸侯が参加を決めた。エジプトのアイユーブ朝を攻撃するという具体的な遠征計画を立て、ヴェネチアに輸送を依頼する。しかし、ヴェネチアは、アイユーブ朝と、アレキサンドリアなどの自由入港、その代償としてエジプトへの遠征を援助しないという協定を結んでいた。十字軍参加者はヴェネチアに集結したが、予定した3万人の1/3も集まらなかった。参加者の有り金を集めても船賃が不足し出航できなかった。そこで、ヴェネチアと協議し、かつてのヴェネチア領で現在はハンガリー王国のザラ(現在のクロアチア)を攻略することで不足分を補うことになった。教皇は激怒し彼らを破門したが、弁明を受け許す。そこに、ビザンツ帝国の亡命皇子アレクシオスが訪ねてきて、帝位回復を願い出た。その見返りは、20万マルクの支払い、ビザンツ帝国の十字軍参加、東西教会の統合であった。結局、指導層(ヴェネチア含む)もこれに乗り、コンスタンチノープル攻略に進む。躊躇したのは当然で一部の者は離脱したが大部分は参加した。…こうしてみると、ヴェネチアの策謀が見える。
さて、コンスタンチノープル攻略を果たし、アレクシオスは父と共同皇帝(アレクシオス4世)となったのだが、20万マルクを用意できず、また税を課す力もなかった。さらに正教会の激しい抵抗にあった。十字軍は約束の履行を要求したが、本人が先帝の婿(後の5世)に暗殺された。再びコンスタンティノープルを攻撃、略奪と殺戮・暴行をつくし、新たにラテン王国を建て、フランドル伯ボードゥアン9世が選ばれた。領土はヴェネチアや諸侯が分割支配した。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略後は東西の教会統合を祝福した。そして再度エジプトへの出立を促したが、獲得した領土(それはパレスチナよりも豊かであった)に満足して、あるいは現地の反乱への対策で動くことはなかった。…まさに、ヴェネチアもヴェネチアだし、教皇も教皇、十字軍参加者も参加者である。
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