2021年12月23日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー18

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百年戦争の経過の続きである。ジャン2世を捕縛され客死した後の話である。1364年、父の客死した同じ年に即位した息子のシャルル5世(賢王)は、戦争による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要収入を直轄領からの年貢のみの方式から国王課税収入へと転換した。税金の父と呼ばれるほどのこの改革は、王家の財力を飛躍的に伸ばし権力基盤を高めた。同時に様々な外交手段で親イングランド勢力を弱めた。

1370年、ゲグランをフランス王軍司令官に抜擢、シャルル5世は会戦を避け敵の疲労を待って着実に白や都市を奪還、ブルターニュ(ブルターニュ半島部)をほどんど勢力下においた。1375年、フランス優位の中で2年間の休戦協定が設けられたが、76年に黒太子、77年にエドワード3世が死去し正式な平和条約は締結されなかった。1378年、シャルル5世はブルターニュ併合を宣言したが、ブルターニュ諸侯の激しい抵抗があり、税の減額を決定した。1380年シャルル5世死去。長男のシャルル6世が継ぐ。1381年、新英のジャン4世ブルターニュ公の主権が認められた。同年、1375年以来の停戦合意から和平条約締結へと交渉が始まる。黒太子の息子リチャード2世とシャルル6世の話し合いはまとまらず、ずるずると休戦合意が延長される。

1392年、両王は直接会談となったアミアン会談の後、1396年に1426年までの全面休戦協定が結ばれた。これには両国とも内紛や混乱があったためである。

イングランドでは、1380年リチャード2世が親政を開始したが、フランス寄りであったため、訴追派貴族と呼ばれる5人の貴族が1377年ラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破り翌年無慈悲議会と呼ばれる議会で王の寵臣8人を反逆罪で告発、これに反発した国王はフランス和平案に反対した貴族を処刑した。またダービー伯ボリングブルックとノーフォーク公を追放刑に処したことで、議会派諸侯は再び軍事蜂起しリチャード2世を逮捕。(ロンドン塔に幽閉後、1400年獄死)逮捕翌日、ダービー伯ボリングブルックがヘンリー4世として即位する。ランカスター朝。彼は、リチャード2世の従弟ランカスター公の息子にあたる。

一方、フランスでは、幼少のシャルル6世の後見人となり、国王課税を私物化したブルゴーニュ派と1388年シャルル6世の親政後王を支える官僚集団のアルマニャック派が対立、しかも1392年シャルル6世が突如精神錯乱となり、泥仕合の内乱となった。しかも共にイングランド軍に援軍を求めることになる。

最初、アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は1412年ノルマンディーに上陸、しかし両派が和睦したので帰国。1413年ヘンリー4世が死去し、その子のヘンリー5世が即位したが、1414年ブルゴーニュ派と同盟を結び、1415年ノルマンディーに再上陸。アキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジュ―の返還とフランス王位を宣言した。仏王家は混乱していたがパリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、大軍(英軍の3~4倍)を派遣したが、アジャャンクール(カレー近郊)の戦いで大敗。アルマニャック派のオルレアン公は捕らえられ、派は弱体化し、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も無力で、1417年、再上陸したイングランド軍はノルマンディー一帯を掌握した。

この間、フランス王家はシャルル6世の跡継ぎ問題で泥仕合を続けていたが、結局1420年トロワ条約を締結した。シャルル6世の王位をそのまま終生認める。シャルル6世の娘カトリーヌ(英名はキャサリン)とヘンリー5世が婚姻し、その子をフランス王の継承者とする=イングランド・フランス連合王国を目指すものであった。シャルル6世の王太子(後のシャルル7世)は不服とし抵抗するが、トロワ条約は三部会の承認を受けた。

しかし、1422年ヘンリー5世が急死、さらに同年シャルル6世も死去した。イングランドはトロワ条約で生まれたヘンリー6世(1421年生まれ)をイングランド王位とフランス王位につける。(実際には8歳でイングランド王戴冠、フランス王は、1431年のシャルル7世の戴冠の4か月後である。ちなみに、百年戦争後もイングランド王はフランス国王の称号を1801年まで使い続ける。)

百年戦争が大きく動いたのが、オルレアン(パリの南部)である。当時オルレアンの少し南部のブルージュで反イングランド勢力と同盟を結んだシャルル7世は再起を狙っていた。1429年、イングランドに包囲されていたオルレアンを救うべく、フランス軍が防衛軍と合流し、包囲砦を陥落させイングランド連合軍を撤退させた。(オルレアン包囲戦)この時大活躍したのが、ジャンヌダルクである。(農夫の娘だが神の啓示=「英軍を駆逐し王太子シャルルをランスに連れて行き王位に就かしめよ」を受けたとしてフランス軍に従軍、ニシンの戦いの預言が的中したことからシャルル7世の王宮へ行くことを許可され、騎士の軍装を寄付された。シャルル7世は、進学者の顧問団に彼女の宗教的正当性を諮問し正当性を認めた。オルレアン包囲戦では、当時の司令部の作戦を無視し積極攻勢を貫いた。)オルレアン包囲戦に大勝した後もランス(北東部にある都市で戴冠式が行われるノートルダム大聖堂がある。)に向かい、シャルル7世は戴冠する。しかし、その後の戦い(1430年のコンビエーニュ包囲戦)で負傷・捕縛され、1431年異端審問裁判で火刑になる。(1456年、復権裁判が開かれ、無罪、1909年聖福、1920年列聖。)

この頃、シャルル7世を財政面でささえたのがジャック・クールである。1427年王立の貨幣鋳造所を入札、1439年には会計方に任じられている。毀誉褒貶の多い人物であるが…。

その後、シャルル7世とブルゴーニュ公との間で6年間の休戦協定が結ばれ、さらにブルゴーニュと荒らすの和約を締結、同盟を結んだ。さらにイルド=フランス(パリの周囲)シャンパーニュを制圧、アキテーヌには周囲から圧力をかけ始める。1436年パリにフランス軍が入場、1439年オルレアンでの三部会で軍の編成と課税を決定、傭兵隊の編成、1445年には常設軍「勅令隊」が設立され、貴族は予備軍となった。平民からは各教会区で一定の徴兵が行われ、訓練・軍役と引き換えに租税の免除がなされることになり自由の名のついた自由射手隊が組織された。またこの頃から大砲が活用され始める。(1440年にこれらに反対する貴族の反乱・プラグリーの乱が起こる。中央集権化への反発だが、一方で諸都市は、街道荒らしと呼ばれた貴族の私兵や傭兵隊による略奪に反発各地で問題となっていたので、王を支持した。)これら一連の軍備編成を終えたシャルル7世は、1449年ノルマンディーを支配する英軍討伐を行い、ルーアンを陥落させる。さらにシェルブールに上陸した英軍を1450年のフェルミニーの戦いで大勝、完全にノルマンディーを制圧した。すぐさま、アキテーヌ占領に着手、ボルドーを陥落させる。一時は奪還されるもカスティヨンの戦いに大勝し再度ボルドーが陥落、百年戦争が終息した。

…百年戦争は、複雑で醜悪である。受験の世界史では、詳細にやる必要はないだろうが、一度きっちりと経過も見たかった。太字が少ないのが、このことを何よりも物語っている。

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