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クリュニー修道院創設の翌年の911年に、東フランク王国のカロリング家の男子血統が途絶えた。王国分裂の危機の中、ザクセン大公のハインリヒ1世がマジャール人への対策を期待されて国王に推戴された。オットー朝あるいはザクセン朝と呼ばれる。955年、その長男のオットー1世がマジャール人を打ち破り、さらにローマ教皇の要請で救援に応えたオットー1世は、962年、長らく空位であったローマ皇帝に加冠される。これが神聖ローマ帝国の始まりとされる。
さて、オットー1世は、他の君主同様首都を定めず、当地領域を宮廷とともに移動する「移動宮廷」(巡幸王権)を基本としていた。その理由の1つは、王位の承認(王としての資質を全人民に示し、隊列を組んで都市に入場し王国会議や教会会議を主催、また裁判を行う)ことであり、理由の2つ目は、徴税システムの問題である。王の財政は自らの領地からのもので、一方臣民には王への饗応義務があり、数百人に及ぶ巡幸要員の宿泊・食事・人馬を提供する必要があった。王の宮廷は、権利を行使しながら各地の問題を処理し、戦争を控えている時には提供される兵士を集め戦場に向かった。この移動宮廷は、実際には極めて効率的な統治手段だったわけだ。
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