2021年12月6日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー4

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オットー朝による神聖ローマ帝国成立のころ、すなわち10世紀から11世紀のヨーロッパのエントリー。フランス(西フランク王国)でも、カロリング家を凌ぐ強大な王家は登場しなかったが、それでもブルターニュ伯、ノルマンディー公などの諸侯が台頭してくる。987年にカロリング家の男系血統が断絶した。王国集会で、フランキア大公でパリ伯のユーグ=カペーが王家継承者に選ばれ、カペー朝が始まる。1338年までフランス君主を輩出する。

イギリス(アングロサクソン人の地)では、イングランドの統合が進み、973年にカンタベリ大司教がエドガー王(平和王)に戴冠した。全ブリテン島の皇帝を名乗った。これがイングランド王国の成立である。ここでも、移動式宮廷が組織され、地方統治組織(シャイア)制が整備される。と共に、フランスのクリュニー制を持ち込み、王立修道院を改革、各地に司教座を設置した。

スカンディナビアでは、10世紀末から11世紀初めに、スヴェーア人、デーン人、ノルウェー人が、それぞれスウェーデン、デンマーク、ノルウェーという統一王国を形成した。デンマーク王国の統一を果たしたハーラル=ゴームソン王(青歯王)が960年にオットー朝の働きかけで、洗礼を受け、多神教(オーディンの神やドルイド僧などで知られる。)の地域信仰からの改宗を果たした。その息子のスヴェンはイングランドを征服、孫のクヌーズはイングランド・デンマーク・ノルウェーの王位を兼ね、北海帝国を作り上げた。

10世紀のイベリア半島では、西ゴート王国からの亡命者が北部にアストゥリアス王国をレオン王国が引き継ぎ、後ウマイヤ朝と激しい領土争いをしていた。一方、カタルーニャ地方ではカール大帝が設置したイスパニア辺境伯領やバルセロナ伯領が中心になり、西フランク王国に忠誠を誓う新たなカタルーニャ伯領を形成した。…現在のカタルーニャ独立問題を考えるとき、すでにこの頃からのルーツを感じる次第。

これらの事項から、1000年頃のヨーロッパでは、ビザンツ帝国下のバルカン半島・キエフ公国(正教圏)と中央ヨーロッパ・スカンジナビア・ブリテン島、イベリア半島北部とカタルーニャにカトリック圏がキリスト教を統治理念に組み入れ、独自の教会組織を整え、地中海の対岸に拡がるイスラム世界と相対する構図が形成されたわけだ。

1049年、改革派のレオ9世が教皇に即位する。その後数代にわたって教皇座の改革が進む。教皇の地位は、世俗の王や皇帝の恣意ではなく、枢機卿団の選挙によって選ばれるものとされ、教皇は全キリスト教世界の霊的指導者と明確化された。1054年、教理上の問題で対立していたローマとコンスタンチノープルは、外交上のトラブル(東側使節の非礼)をきっかけに互いを破門、分裂した。

グレゴリウス7世が教皇に即位すると、聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯の禁止を主眼に改革を進めた。ミラノ司教座をめぐって、神聖ローマ帝国皇帝(ローマ王=ドイツ王・イタリア王・フランケン公・バイエルン公兼務)との間で司教の叙任権をめぐる政治的対立になる。教会会議でグレゴリウス7世の廃位を宣言したが、教皇は王権を停止、家臣の忠誠の誓いを解き、破門を宣言。1077年のカノッサの屈辱に繋がるわけだ。

一方、1059年、教皇座はノルマンディー公領の貴族オートヴィル家の騎士ロベール=ギスカールをカラブリア侯に任じ、ドイツ、イスラーム、ビザンツに対抗する軍事力を得る。またイングランドの継承権を主張するノルマンディー公ギョームに「教皇旗」を掲げる特権を与え、1066年イングランドに上陸、ロンドンに進軍して、ウェストミンスター寺院においてイングランド王に戴冠した。ギョームはイングランド王(ウィリアム1世:征服王)となり、ノルマン朝を創設した。このように、11世紀の教皇権は、軍事力において台頭しつつあったノルマン人傭兵と手を結び、地中海における政治。外交の主導権を握る。これが、後の十字軍に繋がるわけだ。

メタに見ると、中世では、教皇権が拡大し、世俗権力を凌駕し、十字軍ので衰退していく。カノッサの屈辱は、その教皇権・世俗権力のグラフの交点に位置すると、昔教えたことを思いだす。ノルマン人傭兵・ノルマン朝の成立は今回改めて学んだ。「教皇旗」とは面白い、鳥羽伏見の戦いの「錦の御旗」と重なるところがある。

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