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12世紀後半、第5代・ルイ6世の時代から王権の強化が始まる。第7代・フィリップ2世(尊厳王)とイングランドの抗争(vsリチャード1世・ジョン王)で領土を拡大したのは前述のとおり。アルビジョア十字軍は第9代・ルイ9世の時代に終わったが、フランス南部にまで王権が伸張した。総じて13世紀のフランス王権の強化はローマ教皇との連携を前提にしているが、ルイ9世時代の第6回・第7回十字軍はフランス財政に重い負担となった。
14世紀に入ると、フランス国王とローマ教皇の関係は対立へと転じる。第11代・フィリップ4世が大きな転換期に活躍する。フィリップ4世は、1297年、当時経済の中心地だったフランドルに勢力を伸ばし、羊毛を輸出していたイングランドのエドワード1世と戦うことになる。この戦争の戦費を調達するために、フィリップ4世は初の全国的課税を実施し、教会も課税対象となった。これに教皇ポニファティウス8世は、1300年を聖年とし全聖職者のローマ巡礼(巡礼者に天国行きを確約)を強要し、教皇の権威は他のあらゆる地上権力に優越すると宣言、フィリップ4世に教皇の命にしたがうよう促した。
1302年、フィリップ4世は、聖職者・貴族・市民の三部会を設定、フランスの国益を宣伝し、指示を求めた。フランス人としての意識が高まり、教皇の汎ヨーロッパ的価値観に対抗したわけだ。怒った教皇ポニファティウス8世は、フィリップ4世を破門、国王は悪徳教皇弾劾の公会議を要請した。フィリップ4世は、腹心の法曹官(レジスト)ギヨーム・ド・ノガレ(彼の両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていた。)がローマの教皇離宮のあるアナーニを襲撃(アナーニ事件)、教皇は憤死。1305年、次の教皇にフランス出身のクレメンス5世を擁立した。当初からフィリップ4世の強い影響下にあり、フィリップ4世臨席の元で登位した。クレメンス5世は一度もローマに入ることもなく、フランス南東部のアビニョン(一応ナポリ王国の所有だがフランスの強い影響下になった。)に教皇庁をを置いた。(=アビニョン捕囚)以後70年間、教皇庁はアビニョンにあり、フランス王の強い影響下に置かれる。また、1307年にテンプル騎士団総長らを一斉に逮捕、拷問による異端審問の後、騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収したうえで火刑にした。1328年、フィリップ4世が崩御、教皇クレメンス5世も逝去した。
このシャルル4世の死後、カペー朝は男子の継承者を失い、王位は従兄弟にあたるヴァロア伯フィリップがフィリップ6世(以後ヴァロワ朝となる。)として戴冠する予定だったが、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張(前述)、しかしフランス諸侯を説得させることが出来ず、1329年、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げ王位を認めた。
しかし、このギュイエンヌ問題(=アキテーヌ問題:少しだけ残っていた仏南西部のイングランドの領地もしばしば内政干渉やフィリップ4世やシャルル4世に占拠された。)やフランドル問題(フィリップ4世時代に対立、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態にあった。)、さらにスコットランド問題(13世紀末からスコットランドはエドワード3世のイングランドの侵略にあっていたが、亡命したスコットランド王はフィリップ6世の庇護下に入った。)これに対し、エドワード3世はフィリップ6世と対立していたアルトワ伯のロベール3世・ダルトワの亡命を受け入れ、引き渡しを拒否、これに対し、1337年フィリップ6世はギュイエンヌ公領の没収を宣言、エドワード3世はフランスに宣戦布告し、百年戦争が始まるわけだ。
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