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度重なる外政の失敗や財政難・課税の強化に、諸侯や聖職者は反発し、1258年にレスター伯・シモン・ド・モンフォールらが王権を監視する国王評議会の設置と定期的に議会を招集する取り決めを定めたオックスフォード条項をヘンリー3世に認めさせた。1261年、ヘンリー3世は、教皇アレクサンデル4世の許しを得てオックスフォード条項の誓いを反故にした。王党派と改革派が対立、不穏になったのでヘンリー3世は再び条項を承認した。ここでヨーロッパの調停者・ルイ9世に調停を依頼したが、自身も国王であるゆえに条項の廃止と反乱者への恩赦を軸とした裁定を行った。両派ともこれに納得せず、ついに内戦となった。シモン・ド・モンフォールは改革派の諸侯とロンドン市民等の民兵を率いて戦い1264年、王を捕虜とした。彼は、実質的なイングランドの支配者となり、各州から平民身分である騎士と都市の代表(市民)を招集した議会(ド・モンフォールの議会)を開き改革案を施行した。しかし急激な改革が反発を招き、1265年イーヴシャムの戦いで改革派は破れ、シモン・ド・モンフォールも戦死し、さらに1266年ケニスワース包囲戦で改革派は降伏、改革案は大部分破棄された。(=第二次バロン戦争)内乱終結後、王太子エドワードはルイ9世とともに第7回十字軍に参加した。(前述のようにルイ9世はチュニジアで死去したが、ルイ9世の弟でシチリア王の野心家シャルルと共にアッコンに向かう。=第7.5回十字軍:数々の戦闘には勝利したが結局聖地奪還はならずであった。)
エドワードは、即位(1272年:エドワード1世)後、法整備を進めた。改革の精神を受け継ぎ、平民身分を含めた定常的な議会の開催は、彼のの治世で実現(模範議会:1295年)する。イギリスの立憲君主制の基盤である。
このイギリスの法整備は、プランダジネット朝初代のヘンリー2世時代、コモン・ロー(普通法)を制定、貴族から裁判権を奪い、国王裁判官による巡回裁判を開催し、国王法廷への帰属を拒否する教会と対立した。ジョン王の破門もその流れ上にある。中央集権のシステムをイギリスは、ヨーロッパでいち早く作ろうとしていた。コモン・ローについては、次回の研鑽15でさらに深めたい。
一方、エドワード1世は、1277年と1282年-1284年にウェールズに侵攻。併合した。さらに、皇太子エドワードにウェールズ大公の地位を与えた。以降、この称号は英国皇太子に与えられることになった。次にスコットランドに侵攻した。王位継承に介入し、自らに臣従させた。反乱が起こり撃破して、1296年、自ら王位に就く。さらに抵抗運動が激化、1307年その遠征時に死去した。次のエドワード2世時にスコットランドを失う。
エドワード2世は山川の世界史用語集にも出てこない。寵臣に政治を任せ諸侯や議会と対立、王妃イザベラ(仏王フィリップ4世の次女で、男系が途絶え、女子相続を認めたないフランスでは、エドワード3世に王位継承権が移ると考えられた。)と愛人にクーデターを起こされ、議会で廃位させられ、幽閉後、拷問され惨殺されたとも伝えられている。英国史上最低の王らしい。
次の研鑽は百年戦争関連になるが、その前にコモン・ローについて整理しておきたいと思う。
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