2021年12月8日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー5

https://quercus-mikasa.com/archives/11064
中世時代は、東ローマ帝国はビザンツ帝国と称される。西ローマ帝国が崩壊して以後、ローマの政体、キリスト教の信仰、ギリシア語に基づくヘレニズム文化の3要素が、ビザンツ帝国の理念を支えた。今日は、初期・中期・後期に分けて概説しながら研鑽を深めていくことにする。

初期:古代末期のローマ帝国 330年のコンスタンティヌス大帝によるコンスタンティノープルへの遷都は大きな転機となり、8世紀までに帝国の中枢はキリスト教徒が多数を占めるようになった。7世紀にはラテン語に替わって東地中海の共通語・ギリシア語が行政の言語となった。テオドシウス2世はローマ法の整理に着手し、首都の防衛の要となる城壁を巡らせた。さらにユスティアヌス1世は、ハギア=ソフィア教会を大ドームの聖堂として3度にわたり再建し、キリスト教世界の信仰と政治の中心と位置付けた。この大聖堂で、皇帝戴冠式が挙行され、コンスタンティノープル総主座が置かれた。(ビザンツでは、皇帝が総主教の任命権を持ち政教両権を握る「皇帝教皇主義」が確立した。→レオン3世の時代)
また、534年、ユスティアヌス1世は、ローマ法大全をトリポニアヌスらに命じて編纂させ、北アフリカのヴァンダル、イタリアの東ゴート王国、西ゴート王国の一部を奪い、旧ローマ帝国の再征服を部分的に果たした。当方では、7世紀にヘラクレイオス1世がニネヴェの戦いでササン朝ペルシアを圧倒したが、ヤルムークの戦いでイスラム勢力に敗退した。

中期:8世紀~12世紀 ユスティアヌス1世時に最大の領土を確保したビザンツ帝国は、北方からルス(ロシア人)やスラブ人が南下し、東からはアラブ人やトルコ人のイスラム諸国民が迫った。一方、旧ローマ西方領では、カトリック世界が台頭し、政治・協議の両面で競合した。ヘラクレイオス1世の時代に、全領域を行政と軍事を任された将軍の元に、土地を支給された屯田兵を配するテマ制度が整備される。またイコノクラスト(聖像禁止主義者)のレオン3世は、726年に聖像禁止令を出した。この論争は843年の聖像崇拝復活までカトリックとの緊張関係を生んだ。一方で、ビザンツ文化が9世紀には興隆し、11世紀には第一次ブルガリア帝国を滅ぼすなどしたのだが、1054年には東西両教会は相互に破門、分裂した。1071年、マンジケルトの戦いでトルコのセルジューク朝に敗北、アナトリアにおける勢力は大きく後退した。アレクシオス1世は周辺民族と渡り合い勢力の再建を目指したが、現状維持にとどまった。1095年、アレクシオス1世は、セルジューク朝の圧力をカトリックの力を借りて撃退しようと救援を要請、ビザンツのギリシア正教会より上位の地位を目指すカトリックは、第1回十字軍を派遣する。しかし、ビザンツとその周辺に大混乱を引き起こした。1204年、ヴェネツィアの傭兵軍が第4回十字軍の際、首都を襲い、コンスタンティノープルにラテン帝国を確立した。ビザンツは、亡命国家となり、アナトリアのトレビゾンド等に小国家を形成、捲土重来をきすことになる。

後期:13~15世紀 1261年、ミカエル8世がラテン帝国から首都を奪還した。セルビアやモンゴル、西ヨーロッパ諸国と対立。1453年、オスマン帝国のメフネト2世の侵攻を受け、コンスタンティノープルは陥落、ビザンツ帝国は滅亡する。

ビザンツ帝国は1000年にも及ぶ長い歴史なので、これまでの研鑽内容の前や後にも伸びる。この辺が世界史のややこしいところである。タテで教えた方がわかりやすいが、ヨコも無視できない。

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