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近世は、市民革命を理解するのに必要不可欠なので、ヨーロッパの人口増に始まる、大航海時代、ルネサンス、宗教革命はかなり研鑽を積んだ。この隙間を埋めなければならない。今日は、まず、中世の封建制について記そうと思う。
中世の封建制の基盤は、土地領主制(荘園制)である。領主直営地と農民保有地に分かれていた。直営地では農奴と自由民である農民が存在した。農民保有地では貢租を領主に収めていたが、村落を形成し三圃制などの効率的な農法を編み出した。封建領主は、農民を搾取するとともに、不輸不入権(インムニテート)で国王から保護したりもした。日本史同様、不輸不入権があったというのも面白い。
この土地領主制の利点は、土地経営が耕地と農民のユニットになっている点で、所領の交換・譲渡・売却したり、魂の救済のため教会・修道院に寄進したり、家臣に下賜することが容易であることだ。
カロリング朝以降、伯や大公などの国の役職者は、任地で王権を代行する過程で、王から下賜された領地を世襲する貴族が現れ、さらに他の自由人に所有する一部を与え、軍事奉仕や助言を求めた。封建的主従関係が成立する。これらは、異民族(ノルマン人・マジャール人ら)の侵攻に備えるものであった。
ところで、ヨーロッパの爵位はややこしい。最後にこれを付記しておこう。大公というのは、王の息子や弟や分家の長の爵位。次の公爵は、王族に連なる者やそれに匹敵する大貴族で、地方の領地を統治する上位の地方長官。公爵はまた、軍事的優れた有力者の意もある。その下の侯爵は、フランク王国の辺境伯に由来する将軍の称号。王族以外での最高位。伯爵は王の側近で地方へ派遣されている地方領主、神聖ローマでは、宮中伯と呼ばれ大臣のような中央行政を担っていた。子爵は伯爵の補佐・副官格。小都市や城の管理などもしていた。伯爵の嫡男が爵位を継ぐまでの爵位でもある。男爵は、地方の有力者、日本で言えば豪族で、その起源はフランク王国のBaro(自由民で土地を支配する領主)。ちなみに、貴族の爵位ではないが、騎士は中世ヨーロッパにおいて国家や君主に尽くした褒美として与えられる一代限りの名誉称号。
こんな感じで、備忘録的に研鑽内容をエントリーしていこうと思う。
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