https://www.oneindia.com/2013/0 3/14/up-assembly-discuss- subhash-chandra-bose-disa ppearance-1171736.html |
20世紀初頭、当時のイギリスのプランテーションは、ガンビルと呼ばれる薬用植物、サトウキビ、コーヒー、紅茶の栽培(後に天然ゴム)から始まった。熱帯雨林を開拓し、プランテーション化する上で、1838年奴隷宣言廃止を謳ったイギリスとしては、アフリカ系移民以外を探す必要に迫られる。マレーの人々は住み慣れた農村や漁村で生業を持ち満足していた。しかも毎日決められたルーティーンワークには適していないと判断された。
そこで、低賃金、未熟練、そして管理しやすい労働者移民が求められた。まず白人労働者が不適任とされた。中国系は概して勤勉、熟練、応用能力の度合いが高く最良の労働力と見なされたが、経済的人間集団を形成しており、いずれイギリスの特権的地位を脅かす存在と畏れられていた故に、過度の移民流入を避けることになる。ジャワ人もマレー人の類似性から期待されたが、オランダ植民地からの移民故に高い賃金要求がなされコストがかかりすぎた。
こういう事情の中で、南インドの労働者が理想的な労働資源とされたわけだ。気候的類似性は適応を比較的容易にし、彼らは低水準の生活に適応し、イギリスの支配に慣れ、何より従順であった。南インド系のほとんどが、アウトカーストまたは低カーストに属し、小作農で単純なルーティーンワークに適していること、またセイロンからマラヤに移ってきた経営者も多く、セイロン時代に南インド系労働者を利用していた点も見逃せない。
したがって、マレーシアのインド系移民の祖先は、この頃の南インド系、すなわちタミルの人々が圧倒的に多い。彼らはインド政庁に援助された労働移民である。一方、自由意志で移民してきたのは、主に北インド系の人々である。パンジャブから来たシーク教徒をはじめ、ベンガル人やダジャラート人などの人々で、商業移民、専門職、事務職、さらに軍・警察など非労働移民が多かったようだ。
さて、その後インド系の人々にも、ナショナリズムの覚醒が起こる。マラヤのインド移民は祖国の影響下にあり、これを牽引したのは北インド系の国民会議派であった。特に、日本軍が侵入した頃は、チャンドラ・ボース(今日の画像参照)の影響が大きかったようだ。意外ではないが、ここでボース登場である。
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