ミュンヘン一揆(映画の1シーン) http://www.br.de/themen/bayern/hitler-vor-gericht104.html |
意外な話は、ヒトラーは60Km離れた友人の別荘宅で負傷の手当てを受けてから自首するが、これも負傷したゲーリングは近くのユダヤ人銀行家で応急手当てを受け、その主人に助けられ国境を越えてオーストリアに潜入、インスブルッグの病院に入院したことだ。その後のユダヤ人迫害を考えると信じられない。ヒトラーの秘書だったルドルフ・ヘスもオーストリアに逃亡する。しかし、ルドルフ・ヘスは、その後自首し、ヒトラーの監獄でマイン・カンプ(我が闘争)の口述相手になる。
ところで、この監獄生活ではヒトラーは牢名主的存在となる。監房にはアポロンの霊木・月桂樹が飾られ、自ら受難の使徒であることを気取り、食堂の壁にはハーケンクロイツがかかげられていたという。ピアノ製造業者の夫人がヒトラーの義母と偽り面会に通ってきた。「可愛いヴォルフちゃん」とマザコンのヒトラーを呼んだらしい。ヴォルフはオオカミの意味である。
ヒトラーが総統になって、フォルクスワーゲンの本社のある街をヴォルクスブルグ(オオカミの城)と命名させたことは有名である。ヒトラーは監獄で、国中にフォルクスワーゲンの高速道路網をつくることを夢想した。アウトバーンである。塗装は22Cmもある。戦闘機が発着できた。戦略目的と失業対策の一石二鳥の代物であった。
出獄したクリスマスイブの夜、ヒトラーは、ミュンヘンの画商ハンフシュテンゲルという人物の家に泊まった。トリスタンとイゾルデのピアノ曲を所望し髪をかきむしったという。愛の水を飲んでしまった男女の悲劇を歌ったワグナーの曲である。
このハンフシュテンゲルは、ハーバード出身。当時の米国の国務長官がスポンサーで、どうやらアメリカのスパイだった可能性が高い、と大森実は言う。ヒトラーは気前のよいパトロンゆえに疑っていなかったようだが、この時点でアメリカは、ボルシェビキに対する対抗馬としてヒトラーを飼育する方針をとっていたと推測している。
…なかなか現代史は複雑怪奇。それを実感するハナシである。
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