ノーマン・ロックウェル 言論の自由 |
「言論の自由」というコトバを権力者側がマスコミ批判の道具に使うという違和感。ドグマというか、傲慢なイメージでしか残らない。先週、内田樹先生が新聞紙上で、この件について胸のすくような批判を載せておられたのをふと思い出した。この時の記事を私は残しておかなかったのを悔やんたが、内田先生のHPで、ちょうど「言論の自由」について書かれていた。是非読んでいただきたい。
http://blog.tatsuru.com/
「言論の自由」とは、「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。」ということであり、内田先生は、後半の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。」の条件、敬語で書かれ、理非を判断する方々を論争の当事者よりも上に置いていることが、最重要だと言われている。だから、「私の判断は正しいので、他人による理非の判断は不要である。」と考える人間は言論の自由について語る資格がない、というわけだ。
…「今、問題になっているのは国民の叡智に対する信認の拒否である。」との内田先生の批判に、、私の直感的な「ドクマ、傲慢というイメージ」の理論的な裏付けがなされたような気がした。
…今回の問題を含め、今の政府の法案には「ドグマ、傲慢」というイメージがどうしても離れない。この根源は、小選挙区制にあると私は思う。党が(選挙において)各議員の生殺与奪を握っているから、党の権力を握っている者に反対意見を述べることができなくなっている。実際、中選挙区制・派閥が跋扈した時代の自民党ではタカ派もいればハト派もいて、派閥領袖がその意を汲みながらガチャガチャやっていた。どこかのニュース番組で見たが、今自民党の中で正面切って安保法制に反対している議員が一人だけいるそうだ。表面的には党に服従していても彼に強いシンパシーを抱いている議員も多いという。中選挙区制の昔なら、こんなに簡単に、また強引に日本の国是を転換するような政策は打てなかっただろう。
…改めて内田先生の言論の自由の後半部「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。」というコトバを噛み締めたい。傲慢な人間は醜悪である。
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