セントルイス号http://www.ushmm.org/outreach /ja/article.php?ModuleId=10007701 |
この中で特に記憶に残しておくべきことは、ドイツ国内でユダヤ人が段階的に存在できなくなるように仕向けられる中、他の諸国がなんら効果的な手を打たなかったことだ。1933年から41年にかけて、ナチの反ユダヤ人政策の目標は、強制的な移民によって、ドイツ国内から追い出すことであった。38年までに国内の1/4にあたる15万人が去ったが、オーストリア併合で新たに18万3000人のユダヤ人が管轄下に入った。このような状況下、ルーズヴェルトは、32カ国の代表をスイスのエヴィアンに集め、難民問題を話し合うことを提唱した。が、アメリカの代表は政府高官ではなく、ルーズヴェルトの友人の民間人であった。アメリカは、国内の不況をまだ克服しておらず、移民国家ながら多くのユダヤ難民を受け入れる余裕はなかったのである。提唱国がこれだから、他の国が不熱心であったのは当然である。イギリスは国土が狭いという理由で拒否し、パレスチナを(無制限に)解放することも拒否。オーストラリアは「我が国には人種問題はない。わざわざ問題を抱え込むわけにはいかない。」と述べ、カナダは「(都会ぐらしのユダヤ人ばかりの状況下で)農民に限って受け入れる。」と表明した。オランダとデンマークは少数の難民を受け入れると表明した。ドミニカ共和国だけが10万人を受け入れると寛大な申し出をしたが、ほとんど移民するユダヤ人はいなかったという。
38年11月9日の水晶の夜の後、さらに状況は悪くなる。翌年5月13日、ハンブルグとアメリカを結ぶ豪華客船セントルイス号は、ドイツからキューバに向かった。乗客936名中6名を除いて全てユダヤ人であった。しかしハバナ入港間際になって、出港前にキューバ政府がビザの発行を拒否していたことが判明。1人$500の分担金が必要と言われ、さらに接岸後は$100万に跳ね上がる。アメリカのユダヤ人団体も彼らを救うための莫大な金額に躊躇する。アメリカ政府は結局干渉しない、というカタチの入国拒否。この彷徨うセントルイス号の乗客は、その後ベルギー・オランダ・イギリス・フランスに受け入れられた。だが、数ヵ月後ナチは西ヨーロッパに侵攻、ホロコーストを免れ、生き延びたのはイギリスに上陸した288名だけである。
結局のところ、安全な場所に避難できたユダヤ人はほんのひと握りだった。最も多く受け入れたアメリカでさえ、45年までの間にわずか13万2000人である。39年まではユダヤ難民はパレスチナに移住するのがほとんどだったが、39年以後は1年に1万5000人の制限がついた。(ただイギリスは子供1万人を受け入れている。…この辺、ロンドンのロスチャイルド家の力を感じる次第。)ラテンアメリカ諸国は総数で8万人受け入れた。カナダはほんのひと握り。意外にも多いのが中国。ビザも警察の証明書も必要なかったからで、上海にはユダヤ難民があふれた。
とはいえ、知識人たちは比較的恵まれていたようだ。その多くはアメリカに渡っている。NYの北マンハッタンのワシントン・ハイツ地区にはドイツ系ユダヤ人のコミュニティーが出来、冗談で「第四帝国」と呼ばれていた。この地域で成長した子供の中にキッシンジャーがいる。同じ境遇だった劇作家ブレヒトの詩を最後に挙げて今日のエントリーを終えたい。
そう、そうなのだ。ただ運がよかっただけで、
私は友より長く生きてきた。
だが昨夜、夢の中で、友達が私をこう呼んだ。
「自然淘汰の生き残り」
そして私は、自らを憎んだ。
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