ワルシャワゲットー:http://eritokyo.jp/independent/aoyama-poland04-9.htm |
ゲットーをつくったナチの狙いは、「クリーン・バイオレンス」と呼ばれる人為的な餓死であった。1941年、ワルシャワ・ゲットーでは住民の1/10以上にあたる43000人が死亡した。彼らは様々な手段闇物資をを密かに持ち込み、持ちこたえていくが、やがて、ここから絶滅収容所へと送られていく。ナチは、誰を送るかはユダヤ人評議会に決めさせていた。絶望的な状況の中、ラビたちにタルムードの先例が求められた。「もし、異教徒がユダヤ人にこう言ったとする。お前の仲間の1人を我々に差し出せ。我々はその人間を殺す。だが、出さなければ全員を殺す。この場合、ただひとつの魂を死に向かわせるのではなく、全員が殺されるべきである。というのがタルムードの教えるところだった。」という。だが、実際は順次仲間を差し出さざるをえなかったのである。
一方、ゲットーではユダヤの文化を守り抜き、50種類もの地下新聞が発行され、学校が作られ、演劇も上演されていた。ワルシャワ・ゲットーで発見された文書には次のような小話が書かれていた。
ある警察官がユダヤ人の家に来て、持ち物を没収すると言った。女は泣いて、自分は女手一つで子供を育てている未亡人なのだと哀願した。すると警官は、没収を見逃してやってもいいいが、一つ条件がある。自分の目は片方が義眼だが、どっちが義眼か当てたら見逃してやろう。「左目でしょう。」「どうしてわかった?」「人間らしい目ですから。」
1943年7月から9月にかけて、約30万人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーから絶滅収容所に移送された。ついにゲットーには55000人が残るだけになったが、移送は依然として続いており、人々は絶望の中で蜂起を決意する。1月9日。移送への出頭を拒否し、ゲリラ戦が行われた。まずはドイツ側を撤退させることに成功する。さらに43年4月19日、過越の祭の二日目、戦車と火炎放射器で武装した2000人のドイツ軍にわずかな拳銃とライフル、機関銃数丁、手作りの火炎瓶で勝利する。その後も、ゲットーを焼き尽くす作戦が取られたが、ユダヤ人たちは下水道に隠れて1ヶ月持ちこたえた。最終的に、このワルシャワ・ゲットーの蜂起でユダヤ側は7000人が射殺され、7000人がトレブリンカ絶滅収容所へ15000人がルブリン(マイダネク)絶滅収容所に送られたという。
…ワルシャワ・ゲットーについて書かれた膨大な内容をまとめてみた。だんだん8日間というポーランド行が短すぎるような気がしてきた。今はワルシャワ・ゲットーの記念碑とポーランドユダヤ人歴史博物館がある。やはり足を運ばねば…と思うのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿