2015年7月16日木曜日

ホロコースト全史を読む。(4)

ワルシャワゲットー:http://eritokyo.jp/independent/aoyama-poland04-9.htm
ワルシャワ・ゲットーの話を今日はエントリーしようと思う。ホロコースト全史では第4章の「ヨーロッパ各地のゲットー」、第5章「国家政策としての殺戮」にあたる。東ヨーロッパに居住していた数百万のユダヤ人は、ほとんどが都市部に集中していた。ポーランドでは、ドイツ軍の侵攻後まもなく、ユダヤ人のみを居住させ隔離するためのゲットーがつくられた。1940年10月12日、「ヨム・キブル」の贖罪の日に、ワルシャワ・ゲットーは作られた。十数キロにおよぶ壁に囲まれた閉鎖的な空間で、ゲットーの予定地にいたポーランド人11万3000人は追い出され、13万8000人のユダヤ人が移住させられた。ワルシャワ全域の2.4%にワルシャワの30%を占めるユダヤ人が収容されたことになる。これまで4人が住んでいた部屋に10人から15人が生活することになる。不潔で、飢えに悩まされ、病気(特に恐れられたのがチフス)が蔓延し、絶望にさいなまれることになった。ゲットーの運営はユダヤ人評議会に委ねられており、彼らは以後様々な苦渋の決断をすることになる。ちなみにゲットーというのは、ヴェニスにあるユダヤ人居住区の呼び名だったもの。大砲をつくる「鋳物工場」という意味である。

ゲットーをつくったナチの狙いは、「クリーン・バイオレンス」と呼ばれる人為的な餓死であった。1941年、ワルシャワ・ゲットーでは住民の1/10以上にあたる43000人が死亡した。彼らは様々な手段闇物資をを密かに持ち込み、持ちこたえていくが、やがて、ここから絶滅収容所へと送られていく。ナチは、誰を送るかはユダヤ人評議会に決めさせていた。絶望的な状況の中、ラビたちにタルムードの先例が求められた。「もし、異教徒がユダヤ人にこう言ったとする。お前の仲間の1人を我々に差し出せ。我々はその人間を殺す。だが、出さなければ全員を殺す。この場合、ただひとつの魂を死に向かわせるのではなく、全員が殺されるべきである。というのがタルムードの教えるところだった。」という。だが、実際は順次仲間を差し出さざるをえなかったのである。

一方、ゲットーではユダヤの文化を守り抜き、50種類もの地下新聞が発行され、学校が作られ、演劇も上演されていた。ワルシャワ・ゲットーで発見された文書には次のような小話が書かれていた。
ある警察官がユダヤ人の家に来て、持ち物を没収すると言った。女は泣いて、自分は女手一つで子供を育てている未亡人なのだと哀願した。すると警官は、没収を見逃してやってもいいいが、一つ条件がある。自分の目は片方が義眼だが、どっちが義眼か当てたら見逃してやろう。「左目でしょう。」「どうしてわかった?」「人間らしい目ですから。」

1943年7月から9月にかけて、約30万人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーから絶滅収容所に移送された。ついにゲットーには55000人が残るだけになったが、移送は依然として続いており、人々は絶望の中で蜂起を決意する。1月9日。移送への出頭を拒否し、ゲリラ戦が行われた。まずはドイツ側を撤退させることに成功する。さらに43年4月19日、過越の祭の二日目、戦車と火炎放射器で武装した2000人のドイツ軍にわずかな拳銃とライフル、機関銃数丁、手作りの火炎瓶で勝利する。その後も、ゲットーを焼き尽くす作戦が取られたが、ユダヤ人たちは下水道に隠れて1ヶ月持ちこたえた。最終的に、このワルシャワ・ゲットーの蜂起でユダヤ側は7000人が射殺され、7000人がトレブリンカ絶滅収容所へ15000人がルブリン(マイダネク)絶滅収容所に送られたという。

…ワルシャワ・ゲットーについて書かれた膨大な内容をまとめてみた。だんだん8日間というポーランド行が短すぎるような気がしてきた。今はワルシャワ・ゲットーの記念碑とポーランドユダヤ人歴史博物館がある。やはり足を運ばねば…と思うのだ。

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