2015年7月19日日曜日

ホロコースト全史を読む。(7)

エクソダス号 http://markethack.net/
いよいよホロコースト全史のエントリーも最終回である。第8章「ホロコーストの終焉」第9章「それぞれの出発」について書いていく。実は、今ポーランド行きを目前にして、悩んでいることがある。ワルシャワ・ゲットーの事を学ぶにつれ、やはりゲットー跡を訪ねたいと思ってきたのである。ポーランド・ユダヤ人歴史博物館もあるし、最終日(クラクフから14:00着)に行くには時間的にキツイという。うーん。とはいえ、初日に行こうとしているマイダネク収容所(ルブリンという町にある)も捨てがたいところ。第7章は、このマイダネク収容所の話から始まるのだ。

ソ連軍が1944年7月23日に解放する。「収容所の中央には巨大な石造りの建物が建っており、工場の煙突のようなものがくっついていた。これが世界最大の焼却炉であり、このガス室は一度に250人を殺す能力があった。ガス室には限界まで人々を詰め込まれたため…窒息したあとも死体は直立したままだった。」(ソ連の通信員ローマン・カルマンの報道)その後、ソ連軍はベウジェツ、トレブリンカ、ソビブルといったすでに1年も前に閉鎖され焼き払われた収容所にも入る。そして1945年1月27日、アウシュビッツに入る。この侵攻前に歩ける収容者は死の行進を強制され、衰弱して歩けない者だけが残されていた。ソ連は、アウシュビッツの解放は重視されず、新聞報道されたのは、他の4つの収容所を解放した後の5月になってからだった。

イギリス軍は1945年、4月15日にベルゲン・ベンゼンを解放した。収容所にチフスが流行っており、埋められもせず何千体もの死体が放置され、腐敗していた。6万人の収容者がまだ生きていたが、解放後14000人が数日間で死亡した。さらに数週間で14000人が死亡した。ビルケナウ(アウシュビッツ第2収容所)から死の行進でたどり着いた収容者でさえ、ここの方が死を間近に感じだという。イギリス兵は、収容所の実態の凄まじさに言葉を失い、ブルドーザーで大きな墓穴から死体を掘る作業を続けた。地元の市民が呼ばれ、この惨劇を見せられた。

アメリカ軍も1945年4月11日ブーヘンヴァルトに入る。その数日前に25000人の収容者は連れ出されていた。(その後多くは死亡)その後7つの収容所を解放した。さらに4月29日、ダハウでは、有蓋貨車の中に男女10体の餓死した死体を見る。その次の貨車にはさらに多くの死体があった。誰かの呪いの言葉が沈黙を破り、それから怒りの叫びとともに兵士たちは収容所の中に駆け込んだ。彼らは正気を失っていた。手当たり次第目に付いた収容所の監視員を徹底的に痛めつけ、収容者の前に引きずり回し、こいつらをどうするか尋ねた。判決はすぐ下され実行に移された。5月5日、アメリカ軍に発見された最後の収容所はマウトハウゼンとグーセンだった。その3日後WWⅡは終わった。

戦後、収容所から解放されたユダヤ人は、難民キャンプに移された。ポーランドでは帰国したものの村人に虐殺された例もある。アメリカの移民枠は後にトルーマンによって20万人にまで増やされたが、すこぶる多くの書類が必要で、多くの難民はパレスチナへ移住した。イギリスはこれを許可しなかった。残り少ない植民地の確保とアラブ諸国を敵に回すことを恐れていたのだ。シオニストの地下組織が移住に協力したが、イギリス海軍が海上封鎖を行った。キプロスに不法入国者の仮収容所に収容された。モサドは、こうしたイギリスの動きを国際世論をユダヤ人への同情・イギリスの委任統治批判を誘導するキャンペーンに使う。

マルセイユを出た「エクソダス号」は1947年イギリス海軍に拿捕され、マルセイユに送り返された。そこでユダヤ難民はハンガーストライキに入る。事件は世界の注目を集めた。イギリスは世界世論を読み違え、催涙ガスを使い下船させ、あろうことかドイツのベルゲン・ベルゼンに送り返したのである。国連でパレスチナにユダヤ人国家をつくる決議が採択されたのは、この4カ月後である。

…まさしくホロコーストがイスラエルというユダヤ人国家をつくったのである。

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