2015年7月18日土曜日

ホロコースト全史を読む。(6)

http://raoulwallenberginstitute.org/category/topics/peace
第7章「抵抗と支援」は、タルムードの一節から始まる。「一人の命を救う者は全世界を救う。」加害者が被害者に対して圧倒的優位に立っていたホロコーストにおいて中立はまさに、殺人者への加担でしかなかった、と著者は書いている。ここで中立と非難されているのは当時のルーズヴェルト・アメリカ政府である。アメリカが戦争難民評議会を設置したのは、1944年1月。ニュルンベルグ法から8年、水晶の夜から5年、すでに各地に絶滅収容所・強制収容所・奴隷労働収容所が作られていた。国務省内の反ユダヤ主義、国内の移民排斥主義、アメリカ在住のユダヤ人組織の無力さ・まとまりのなさ、それに加えて何よりも戦争努力を優先すべきだという1941年の決定が足かせになっていた。ルーズヴェルトが重い腰を上げたのは、(四選をめざしていた)選挙の年にこのようなホロコーストの事実が出れば、自分の政治生命が危うくなるとの判断だったという。
…日本でも同様の話が東京のある建築をめぐってあったところだ。感無量である。

一方で、ヨーロッパ各地で、生命の危険を顧みず、ユダヤ人を助けた人びとが多くいた。その動機は、様々であるが、それは人間として当然であり、戦後も自分たちは英雄ではないと語った。

ナチに占領されたヨーロッパ諸国の中で、デンマークだけはほぼ全員のユダヤ人が助かっている。昔からユダヤ人に寛容で、社会に受け入れられ尊敬されていた。ドイツはデンマーク人をアーリア人とみなし大幅な自治が認められていた。それでもドイツからの移送命令が出た時、国を挙げてスウェーデンに脱出させている。しかも財産や手厚く保護され返却された。トーラーなどは教会が保存し、企業は信託に付された。自分で動けない障害者や老人・貧困者は収容所に移送されたがデンマーク国籍のユダヤ人には、政府が収容所の調査を要求し、支援物資が送られ、赤十字の視察団まで送った。収容所が開放された後、最初に帰国できたのはデンマーク国籍の収容者だった。移送された464人のうち死亡したのは51人だけだったという。

前述のアメリカの戦争難民評議会の呼びかけで、ハンガリーのユダヤ人援助に立ち上がったのが、スウェーデンのラウル・ヴァレンベリという貴族出身で銀行家の御曹司である。外交官パスポートと莫大な資金、そして非公式ながらユダヤ人を救助する全権をもって乗り込んだ。(呼びかけに対し、他の中立国スイス、バチカン、国際赤十字は努力するという回答だけだったという。)当時は、ソ連が侵攻し、ハンガリーのユダヤ人移送は中止されていた。彼はスウェーデンのパスポートを5000通発行し、ブダペストに住むユダヤ人のために病院・託児所・無料食堂をつくる。かのSSアイヒマンがオーストリア国境までの死の行進を推し進めた際、スウェーデンの安全通行証を何千通も発行し、ユダヤ人を釈放するよう、脅し、賄賂などで妨害する。彼はアイヒマンにより車の衝突事故にもあった。ソ連軍がブダペストに入った際、彼はスウェーデンに帰国することも可能だったが、ハンガリーのユダヤ人の戦後の生活立て直しのために残った。しかし、その後行方不明になる。長らくソ連は彼を拘束していたことを否定していたが、ゴルバチョフによって家族に彼のパスポートが返却された。1881年、アメリカ議会はチャーチルに次ぐ2人目の名誉市民称号を送った。

…本書には、その他多くの支援の話が出てきたが、デンマークの国をあげての話はなかなか清々しい。だが、ふと、イスラム教徒を憤慨させたムハンマド風刺の始点がデンマークだったことを思い出した。この辺はどうなのだろう。アメリカ政府のホロコーストへの対処の遅れが、多くのユダヤ人殺戮の責任の一端を担っていることは否定できない。そのアメリカが、先日イランとの和解の中で、水面下でイスラエルにF35(ステルス機でF22ほどではないが最新鋭機として大きな戦力となる。)を供与するという報道もあった。アメリカの贖罪は今尚続いているようだ。

…スウェーデンのラウル・ヴァレンベリ氏については、この本で初めて知った。日本では杉原千畝氏が有名だが、杉原氏に勝るとも劣らないユダヤ人救援とその崇高な精神に感じ入る次第。現代史は様々な糸が絡み合い、”今”をつくっている。そういえば、先のイスラエル行の時泊めてもらったお婆さんはスウェーデンからイスラエルに移住してきた方だった。なぜか、鈴木大拙の禅の本(もちろん英文)が置いてあった。ラウル・ヴァレンベリ氏のことをもっと早く知っていれば…と思う。

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