ウガンダの牧畜民 ドドス |
レイディングとは何か?具体的に書かれている部分をまず少し引用したい。『レイディングの被害はけっして稀な出来事ではない。レイディングには武装集団を組織して、放牧中の群れを水場や放牧地で待ち伏せしたり、家畜キャンプや集落を襲撃する以外の方法もある。たとえば、放牧中に群れからはぐれた数頭を連れ帰ったり、幼い子供が牧童をしている仔牛群や個体数の少ない群れをねらい、牧童を追い払ったり縛ったり、稀には殺したりして、群れを連れ去る。あるいは、夜間に集落の柵を乗り越えて家畜囲いに侵入し、内側から門をあけるとか、家畜囲いの柵を1本1本外して、そこから家畜を連れ出す。囲いへの侵入や柵はずしは気付かれれば銃撃戦になるが、これらの行為はいずれも「盗む」という動詞で表され、基本的に銃や槍などの武器を使わずに家畜を奪い取る窃盗型の略奪である。』
河合氏は、このレイディングの実相を個人レベルから描いている。河合氏が調査をした家族は、何度もレイディングに遭い、全ての牛を失ってしまった。しかし、彼らも又レイディングを行いアチョリ、トゥルカナ、ジエといった近隣の牧畜民から牛の略奪に成功している。こう書くと、互いの復讐行為のように見えるのだが、そう簡単な話ではない。ドドスと他のエスニックグループは、敵対関係になったり、友好関係になったりかなり状況が変わる。敵対関係にあっても、友人間であれば、家畜の交換(たとえば、雄牛と雌牛とか、羊やヤギ、ロバとの交換とか)が行われたり、見ず知らずの他のエスニックグループの人物と交換したりすることもある。
平穏な関係時には、特に寛容である。ドドスは、よくトゥルカナ(ケニアの牧畜民)と敵対するが、彼らは、トゥルカナが、農耕を全くしないことに軽蔑とも哀れみともとれる指摘をする。(ドドスは、牧畜があくまで主であるが、家畜の獲得のため農耕も行う。)だが、トゥルカナの生活なり性向を肯定的に見ている。彼らは農耕をしないのだからと、ドドスランドにある牧草地や水場をあえて使わせることもあるのである。
結局のところ、彼らは、レイディングを善悪によって評価しようとしないのである。レイディングはなんらかの事情があっての行為であると考えている。ドドスは、レイディングの被害を語る際、「奪われた」という文脈より、結果として「喪失」を繰り返す。「牛がない」ことが重要であって、自分の家畜を奪った相手が誰なのかということは本質的な問題ではないらしい。その時々の状況を独立したモノとみなし、個々に個別に対処するという態度なのである。
とはいえ、彼らは過去を反故にしているわけでも忘れているわけでもない。敵対したエスニックグループに寛容でいられるのは、そういう様々なレベルの自己あるいは集団の表象をそぎ落とし、両者が共有する「今」の文脈に身を投じているのである。究極の現実主義とでも言おうか…。それが彼らの生存のための技法であるらしい。
こういう牧畜民的な生き方は、我々日本に住む人間の想定をはるかに超えている。私は面白くて仕方がない。十戒もまた、そういう生存の技法から生み出されきたといえる。異文化理解と、コトバでは簡単に言うけれども、そう簡単に理解できるものではないのである。
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