2011年6月1日水曜日

授業再開 焦点・商店・昇天・焦点

中間考査が終わって、世界史Bも、政治経済も授業再開である。世界史Bの方は、ヘブライズムを本格的にやっている。まあ、倫理の焼き直しであるが、旧約聖書をきちっと教えるところから始めている。アブラハムがイサクを神の生け贄として殺そうとする岩こそ、世界史の「焦点」であるということ。神への信仰の証としての岩。そこにユダヤの神殿が造られ、後に破壊され嘆きの壁となる。ユダヤの神殿に集まった「商店」を壊して回り、近くのゴルゴダの丘で十字架刑となったイエス。さらにムハンマド(マホメット)が死んだとき、彼の魂はこの岩までメッカから飛んでいき、この岩から「昇天」したとされる。だから今、世界遺産・岩のドームが建てられている。このエレサレムが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるということは、日本人でも知っている人は多い。だが、何故かという話になると、この3宗教の父と讃えられるアブラハム抜きには、そしてその岩抜きには語れない。十字軍も、シオニズムも、中東戦争も、すべてこのアブラハムから始まっているのだ。神がアブラハムに約束したカナンの地こそ現代史の焦点、パレスチナである。つい、力が入ってしまうのであった。

政治経済では、アフリカを理解するための近代国家論を説くために、資本主義の歴史から民主主義のなりたち、社会契約論と進んで市民革命まで中間試験の範囲でやった。いよいよ、民主主義とは何か本格的な内容に突入する。今日は、民主主義=共和制?民主主義≠君主制?というテーマでやった。アメリカ、フランス、中国、イギリス、スウェーデン、ネパール、オーストラリア、そして日本を共和制国家と君主制国家に分類させてみた。案外難しい。(ネパールなどは特に意地が悪い。最近国王の意志で共和制になった。)日本などは、ディベートができるくらい難しい。民主主義を政治体制だけでは示せないという結論を導いておいた上で、明日は、さらに基本的人権を整理していく。人権こそが、民主主義の基盤だろうか?という問いかけである。

実は、私はこの基本的人権を語るのは、ずいぶん久しぶりである。昔は様々な例を引いて単に説明に終始したが、今回は、たとえば言論の自由は、本当に存在し得るのか?と問いかけようと思う。自由の国・アメリカなら存在しえるのだろうか?私はそうは考えていない。9.11の時、ウェスト・ヴァージニア州で、ある女子高校生がブッシュ大統領の「これは戦争だ!」という発言に抗議して「反戦」を訴えるTシャツを来て登校した。これを校長が停学にしたというニュースが流れ、当時の久米宏がニュースステーションで「反米・非戦」キャンペーンを張ったことがある。私は、このウェスト・ヴァージニア州というのがミソだと思っている。この州はプワー・ホワイトの州と呼ばれ、アパラチア炭田が閉山した後貧乏な白人の州となっている。いきおい軍人を多く輩出している。そんな国(州)での話だ。ルソーの言う一般意志は、その女子高校生にはなかったのだ。(私は今でも、久米宏に代表されるマスコミの、そういうアメリカをステレオタイプに見て、確信をもって批判する傲慢さや無知を軽蔑している。)
ヨーロッパの中華人民共和国・フランスにも、イスラム系の移民問題がある。日本にも「平和」という国是がある。核武装や第9条の否定は長らくタブーであった。それぞれの国にある一般意志が、言論の自由を押さえているというのが現実だと私は考えている。

近代国家論は、この後国民国家へと続く。国民国家は、国民皆兵をその基盤としている。国家は、基本的人権を守る存在であると共に、国民を国家のため犠牲に出来る力を持っている。上品に言えば公共の福祉という装置を持って、人権を制限する力を持っているわけだ。逆らったらそれを暴力的に制限する装置も持っている。こういう流れの中で、民主主義と国家と人権を考えて行きたい。それが、近代国家論から読み解く、アフリカのガバナンスを理解するための「焦点」だと思っているからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿