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日本との関わりは、UCL在学中の17歳の時、兄が図書館から借りてきた「(インド総督だった)エルギン卿の中国と日本への使節記」を読んだことで、日本に夢中になる。翌年、UCLで通訳生の募集がありトップ合格する。1862年日本に着任。日本語は漢字を少し学んだくらいで、中国語が理解できれば大丈夫だろうくらいに最初は考えていたらしいが、朝から午後1時位まで紀州藩の医師について猛勉強した。6年後、一時帰国し日本語書記官に昇進し、1870年再来日1882年までかのパークス大使を助ける。その後シャム総領事・公使、ウルグアイ公使、モロッコ公使となり、1895年日本公使として帰ってくる。ちょうど日清戦争終了直後、三国干渉の最中で、1900年隊長を悪くした清国公使の後任で離日するまでロシアの極東の動向を監視し、のちの日英同盟の影の立役者になったと言われている。
サトウは、言うまでもなく幕末期に各地を飛び回り、薩長や幕府の主要メンバーと接触している。明治天皇、徳川慶喜、勝海舟、西郷、大久保、五代才助、森有礼、桂、井上馨、伊藤、伊達宗城、山内容堂、後藤象二郎、陸奥宗光などなどである。薩英戦争にも出向いているし、下関での高杉との折衝にも出向いている。彼は、日本語を通訳できるだけでなく、翻訳もできたし、当時の候文まで見事に記している。努力もあるだろうが、天賦の才もあるにちがいない。
サトウは日本人の妻を娶っている。内妻というべきであるが、英国はは連れて帰らなかった。おそらく日本で暮らしている方が混乱せず幸せだろうと考えていたようだ。長男は後にコロラド州デンバーで農場経営、次男は、東京外国語学校を出て、札幌農学校、東北帝国大学の予科の講師を務めながら、日本山岳会を創立。1910年に渡英し、植物学(父のサトウも植物学者でもあった)をおさめ帰国。東京帝国大で理学博士号を受け、京都帝国大学、北海道帝国大学、九州帝国大学などで植物学の教鞭をとった。尾瀬(画像参照)を守った人でもある。
1929年、サトウの最後を看取ったのは、日本にいる時から50年に渡って身の回りの世話をしてきた越後出身の本間三郎。つまり、サトウは、英国人の妻はいなかったわけだ。日本への愛とリスペクトを感じざるを得ない。
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