https://www.ungcjn.org /sdgs/goals/goal16.html |
というわけで、地球環境問題を軽くおさらいした後、SDGsを語ろうということになった。その前提として、MDGsを教え、比較することにした。MDGsは開発途上国を対象にしている。SDGsは、途上国だけでなく先進国や中心国を含めた全世界を対象にしていることが重要である。
このキーワードとなるのが、「包摂的」という語句だ。難解な語彙だが、SDGsの脈略から見ると「誰ひとり取り残さない。」という意味である。途上国の人々も、先進国・中進国の人々も、誰一人取り残さないというわけだ。素晴らしい理想であるのだが、現実は厳しい。今日のエントリーは、「見殺しにする論理の第2回」である。なぜ、見殺しに出来るのか、あるいは殺す側に回れるのかという哲学的宗教学的な思索をしてみたい。私は、これを一神教的な排他性だと批判せずにはおれない。一神教を信じる友人や教え子もいるのだが、彼らを批判するわけではなく、あくまで一神教の持つ排他性について批判したい。
ユダヤ教に始まる一神教だが、ユダヤ教徒は「選民」であることをことさら意識する。故に多神教は当然、同じ一神教でもキリスト教やイスラム教に対して排他的である。同じユダヤ教徒でさえ、超正統派は、正統派や世俗派に対して選民感を露わにしていることをイスラエルで実感した。ディアスポラで世界中に散らばった後でも、共同体を頑なに守り続けた。ユダヤ教徒は歴史的経過から、改宗を勧めない。(ディアスポラ中の弾圧・迫害の中で、改宗には極めて慎重になった。)よって、「選民」のDNAはさらに極めて強くなったと感じる。パレスチナ・アラブ人に対する非人道的な行動は、第三者である我々から見ると信じられない行動だが、そのDNAがさせる業であろうし、彼らが受けてきた弾圧・迫害のDNAは、他者にこれを行うことも凡常と見ている面もある。
キリスト教は、愛の宗教であり、隣人愛を説くが、これもまたキリスト教徒内(もっと言えば、カトリック内、オーソドックス内、各プロテスタント宗派内)での隣人愛であることが、目につく。ローマ帝国でユダヤ教徒が市民権を得た後、キリスト教が国教化すると同時にユダヤ教への弾圧が始まる。世界史上の幾多の宗教戦争もしかり。アメリカのカルヴァン派の中でも「回心」した者とそうでない者の差は大きい。よって、キリスト教という大枠、各宗派、さらにその中でも隣人愛への差があるといえよう。
イスラム教は、ユダヤ教徒を(神の)お怒りを被った者、キリスト教徒を迷い去った者として、礼拝時に常に批判しているが、同じ神を信じる者として、歴史的に多神教徒より数段上の一体感を持っている。もし、シオニズムがなければ、ユダヤ教徒とこんなに争うことはなかっただろうと思われる。だが、一方で、ジハードの概念を持ち合わせており、カリフの元、世界を統一するという原理が有るのも事実だ。復古主義者のハマスなどは、パレスチナの歴史も踏まえて、ユダヤ教徒を蛇蝎のごとく見ており、不信仰者へのジハードの対象としていると見える。
大乗仏教では、「平等大慧」として、全ての人間に仏性があり尊いと見る。一神教のような「選民」「宗派内の隣人愛」「不信仰者へのジハード」などといった人間の区別は存在しない。SDGsの「包摂的」という語彙がしっくりくるのは、大乗仏教であると私は思っている。もちろん、一神教を信仰する人の中でも、私のマレーシアでの教え子たちをはじめ、この「平等大慧」を理解できる人々も多いはずだ。混迷の時代を「包摂的」にリードできるのは、東洋の智慧だと思う次第。
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