2023年9月30日土曜日

「長州5」と「薩摩19」

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長州ファイブは、苦難の航海の後、UCL(ユニバシティ・カレッジ・ロンドン)に聴講生として入学する。当時のオックスフォード、ケンブリッジ両大学は、英国国教会徒しか入学は許されていなかった。功利主義哲学者ベンサムの提唱で外国人ににも門戸が開かれた大学があったことは、実にラッキーであった。ここのウィリアムソンという教授の世話になる。教授は分析化学が専門で、理系故に英語にハンディがあってもよかったこともラッキーだった。教授宅に、伊藤俊輔と井上勝、遠藤謹助の3人、UCL近くの風俗画家・クーパー氏宅に井上聞多と山尾康三の2人に分かれる。とりわけ、伊藤と井上勝が絆を深めたことは、後の日本の鉄道の発展に寄与した。

半年後に、井上聞多と伊藤俊輔は、長州藩の攘夷活動を止めるため(といっても間に合ったのは休戦協定時だが)帰国する。この辺は良く知っている。高杉晋作の通訳をし、井上聞多は攘夷派に切られ瀕死の重症を負うところだ。

さて、2人が帰国した後、「薩摩ナイティーン」と出会う。薩摩藩も19人の留学生を送り込んでいた。だいぶ以前に文庫本で読んだ記憶がある。(2010年12月30日付ブログ参照)3人は彼らと合う。蛤御門の変で薩長は相対し、宿敵同士である。本国の薩長連合の8ヶ月以前の話である。五代才助や森有礼らと、同じ目的で学んでいることを確認し打ち解けたようだ。その後、造幣局の父となる遠藤謹助が肺の病気が理由で帰国。井上勝と山尾康三だけになる。山尾康三は、UCLをやめ、グラスゴーで造船の勉強を本格的にしたいと言い出す。この時、薩摩19は、資金の乏しい彼に、彼に1ポンドずつハランべー(スワヒリ語で助けあい)する。薩摩の留学生は長州より遥かに金銭的に恵まれていた。薩摩藩は20万両を支出している。流石は琉球密貿易の成果というところだろう。

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