2022年4月28日木曜日

菊地寛 大衆明治史を読む3

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82
%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%8A%E6%A
C%A1%E6%AD%A3%E7%B2%BE_%E7%99%BA%E5
%B8%83%E5%BC%8F%E4%B9%8B%E5%9B%B3.pn
g
大日本国帝国憲法の隠れた功労者は、ドイツ人公法学者のヘルマン・ロエスレルという法律顧問であるらしい。参考案としてロエスレルが起草した憲法案があって、憲法と酷似しているという。ロエスレルに対し、井上毅が質問をし、それを頭本元貞が英文にしてロエスレルに示し、これをまた翻訳して井上に戻すというパターンが続き、伊藤博文は双方を対比して法理的に研究していくといった作業が続いたらしい。 

さて、憲法は新たに設けられた枢密院にて、国家の元勲および練達の士を集め明治天皇出席のもとで、各条ごとに、21年5月8日から12月17日まで、毎週1回また隔週1回のスピードで審議された。ちなみに、大隈(当時外相)はこの審議に最初だけ出席、あとは欠席した。憲法においては伊藤博文に勝てないので、一家言ある大隈のこと、面目にかかわる故だろうと菊池寛は論じている。

ところで、明治天皇は、この枢密院の憲法審議に一度も欠席されることはなかった。欽定憲法というのは名目上のように感じるが、この謹厳実直さが明治天皇の明治天皇たるところである。しかも少しでも疑問があれば伊藤を召されて、細部まで検討されていたという。11月12日の会議の際、侍従が慌ただしく入ってきて、伊藤に耳打ちした。伊藤は明治天皇の御前に進み何事か言上した。そして会議を続行、その審議が終わると、伊藤の奏上を受け入御された。実は、第九子(第四皇子)の昭宮(一歳)が逝去されたのであった。明治天皇は審議を止めさせなかったわけである。
…公に撤する明治天皇の姿勢をA宮家の人々に学んで欲しいものだ。

22年の紀元節(現・建国記念の日)の日に大日本帝国憲法が発布されたが、一般国民の代表として、各県会議長も参列した。ちなみに森有礼文相が式典に参加しようとして暗殺された。(式典終了まで秘密にされたそうだ。)

0 件のコメント:

コメントを投稿