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「藩閥有司攻撃には虎の如き民軍の兵士言一たび皇室に及べば猫の如く柔順なり」とは議会開始後の政治史にある記述である。自由党の敵は藩閥政治であったのは明確だ。
さて、板垣といえば、岐阜で暴漢に襲われた。「板垣死すとも自由は死せず。」とは有名だが、飛報が東京に届き、後藤象二郎は「余は板垣の屍体を壇上に構えて、弔演説をなさん。」と言ったという。やることなすこと、みな芝居じみているし、しかもこれらが大真面目だと菊地寛は苦笑している。
ところで、この時板垣の傷を診察した青年医師は、当時愛知県病院長だった後藤新平であるそうな。後に日清戦争後の防疫に活躍し、児玉源太郎と台湾に行った明治期第2世代の逸材である。
明治十四年の政変で、下野した大隈重信の立憲民主党は、知識人を結集した。官僚の前島密、犬養毅、尾崎行雄ら慶應出身者、さらには帝大出身者などである。今となっては意外だが、早稲田創立者の大隈を慶應創立者の福沢が応援していたわけだ。
…ちなみに今日の画像は、国会議事堂の中央広間。板垣・大隈・伊藤博文の3銅像が四隅に立っている。憲政の理想を叶えたときにその4人目の銅像が立つとか立たないとか…。昔々見学に行った時、そんな話を聞いた記憶がある。
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