N君という学生と、翻訳業について今日、立ち話をしていた。彼女はすでにマレーシアの大学で中国思想を学んだ才媛である。彼女の志は、F38のI君やK君と同じ「翻訳」である。日本語と中国語の狭間で生きることを志している。
私の日本の教え子も日本語と英語の狭間で頑張っている。彼女たちの多くはメーカーや商社に入り、専門的な製品や契約書などの翻訳をしているはずだ。
中国語の文章を日本語に翻訳することは、ほぼ学者の世界かもしれない。日本にはそういう学者諸氏がたくさんおられる。また日本語の文章を中国語に翻訳することを生業にしている人もいるだろう。いずれにせよ、現在の中国本土のスタンスからして、なんでも自由に翻訳するということは難しそうな気がする。そんなハナシをしていたのだった。
ところで、日本語における中国の人名は音読みなので、桃文元の「海瑞罷官を評す」を例に取ったのだが、ヨウブンゲンではN君には全く通じない。あたりまえであるが、なかなか大変なのである。
ところで、今日は月曜日。職員連絡会があって本校に出向いた。いつものように、無人古本コーナーを覗いたら、パキスタン人の詩集があった。もちろん日本語訳である。パキスタンだから、ウルドゥー語だろうか。これも翻訳なわけで、なんとなく手にとって気に入ったので、RM1を入れてきた。「ムーサーの一撃」という詩集である。ムーサーとは日本ではモーゼのことである。なんとなく題名に惹かれたのだ。
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