2015年11月25日水曜日

三島の45回忌に「葉隠入門」

朝、モーニングが休みなので日経をローソンで買い求めた。「春秋」で、今日が三島由紀夫の45回忌なのだということを知ったのだった。今でも中学1年の時の三島事件についてはよく覚えている。

その三島の座右の書は、「葉隠」だったのだという。その帯に惹かれて、三島の「葉隠入門」(新潮文庫・昭和58年4月25日発行)を買い求めた。久々に三島のレトリックに痺れながら読んでいる。まだ最初の方だが、三島はこう書いている。

当時この一冊は、戦時中にもてはやされたあらゆる本と同様に、大ざっぱに荒縄でひっくくられて、ごみだめの中へ捨てられた、いとうべき醜悪な、忘れ去らるべき汚らわしい本の一つと考えられていたからである。かくて「葉隠」は時代の闇の中で、初めてそのほんとうの光を放ち出した。

わたしが戦争中から「葉隠」に感じていたものは、かえってその時代になってありありとほんとうの意味を示しはじめた。これは自由を説いた書物なのである。これは情熱を説いた書物なのである。「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という有名な一句以外に「葉隠」をよく読んだことのない人は、いまだに、この本に忌まわしいファナティックなイメージを持っている。しかし、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」というそのその一句自体が、この本を象徴する逆説なのである。わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見出した。

…三島は、この「葉隠」、犬儒的な逆説ではなく、行動の知恵と決意がおのずと逆説を生んでいく、類のないふしぎな道徳書だと、さらに評論「小説家の休暇」の中で書いている。なかなか面白そうではないか。

…今日、例の「ホロコーストとは何だったか。」という、3年生の人権教育を実施した。実は、その直後に卒業アルバムの全体写真を撮るとのことで、生徒も担任団も、講堂から潮が引くように消えていった。片付けをしていた私は結局、生徒の感想を聞く機会を失ってしまったのだった。ただ、学年主任から、「(全体写真を撮る際)笑顔をつくるように。」と言っても、生徒がなかなか笑顔になれませんでした。と、「逆説」的な感想をいただいたのだった。重い話だったし、画像もかなりショックを受けたらしい。

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