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いろいろ書くと膨大になるので、最後の章、水戸藩と長州藩の比較についてエントリーしようと思う。水戸藩、長州藩ともに、藩内の抗争が他藩より激しかったという共通点がある。水戸藩の抗争は極めて悲惨である。烈公在命中はともかく、その後は血で血を争うような展開になる。「天皇の世紀」で読んだが、あまり記憶に残っていない。というか無意識下で残したくないような感じだった。長州の抗争は、意外に経済的な改革においては同根で、最後は高杉のクーデターで一気に俗論派が一掃される。水戸藩と違い、人材も常に補充されていたし、なにより明確な倒幕という目標が長州の抗争を終了させた。この差は、実は、「そうせい公」毛利敬親の存在が大きいと著者は言う。
司馬遼の作品などでは、見事なまでに「そうせい公」は無味無臭に描かれている。たしかに、他の有名な大名に比すると、個人的な時勢への主張や行動がない。長州の藩政府は、当時としてはかなり民主的で、彼らの結論に「そうせい。」と同意するだけである。だが、史実によると、なかなかの名君であることがわかる。現場主義の知事さんとしてのイメージで見れば、であるが…。ご本人はかなりの倹約家であったし、学問にも熱心で自ら藩校に学びに行ったり、軍事演習や開発現場などの視察も頻繁であった。自ら萩城内で田植えも稲刈りもやったという。
著者の表現を借りる。「つまりは律儀で真面目な性格。誠実な人柄であった。天候不順を自分の不徳と考えるような、繊細さと純粋な責任感を持っていたのである。さらに身分の低い家臣の意見も直接聴取するなど、積極的に藩内政治に関与していった。」
「家臣から報告や提案があると、なんでも「そうせい。」と言ったというのは大げさである。仮にそうだとすれば、敬親は大変な勇気と責任感を持った君主と言わねばなるまい。最終的な責任をとれる覚悟がなければ「そうせい。」と言い続けることはできなかったであろう。長州の象徴として、毛利敬親は十分その役割を果たしたし、逆に水戸藩の徳川慶篤(斉昭の子)は家臣から軽んじられ、象徴としては機能しなかった。」
…実は、毛利敬親のそのような名君ぶりは初めて知った次第。先日のNHK「花燃ゆ」で、主人公の久坂文が、偶然ではあるが、「そうせい公」と直接話すシーンがあった。この大河ドラマ、妙に学園ドラマ風で、史実とはかなりかけ離れていると感じていたのだが、その可能性はゼロではないわけだ。
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