2015年5月11日月曜日

試験作成 ドライアイな一日

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GWが終わって、今週は中間考査前の一週間。きっちりと授業がある。世界史Bの方は、一応先週に試験もつくり、試験準備のプリントも作成済みである。月曜日は4時間授業であるが、残る日本史演習の試験をずっと作っていた。

日本史演習の1学期中間のテーマは、「日本史を俯瞰する」である。まずは、古代・中世・近世・近代の時代区分の確認。これに天皇制をかぶせて見てみる。古代の権力者としての天皇が権威に変遷していく過程を「官位」で説いてみた。

清和源氏から生まれた武家政権だが、源頼朝は、幕府=将軍の許可なしでは官位=任官を認めないようになる。幕府>朝廷なわけだ。この犠牲になったのが源義経である。生徒に発問したら、この難しいクイズを答えてくれたりした。なかなかやるぞ。戦国時代には、織田信長など勝手に官位を家来に与えたりしている。官位は地に落ちるわけだが、これを江戸幕府なんぞは禁中並公家諸法度でギンギンに締め付けながら幕府の権威付に利用する。

天皇制は、このように長らく「権威」でしかない。それが、近代になって、一気に大日本帝国憲法で天皇主権になるわけだ。もちろん、幕末の志士の尊皇のスローガンはあったわけだが、それがすぐに結びつくわけでない。岩倉使節団が欧米で実感した違和感が大きな影響を与えている。大久保が資本主義化の重要性を感じ、桂小五郎が民主主義の確立の重要性、特に近代憲法の必要性を実感したわけだが、共にキリスト教が根ざしている欧米に違和感をもつのだ。憲法を作るときは、日本的なものにしなければならないと、それぞれが意見書を出している。その日本的な原点として、天皇を置くのである。暗殺と病死で二人を失うが、その後を継いだ伊藤博文は、この原則を守る。ただ、ドイツ風の憲法にした際、専制君主的な憲法に衣替えされてしまう。明治天皇は、五箇条の御誓文を心肝に染めておられたようで、自らは「権威」であり、「権力」を行使しないという立場を貫くのである。それが、どんどん変な方へと向かっていく。昭和初期には、天皇機関説が否定されていくのである。

一方、日本はなぜ植民地にならなかったか。というテーマで話した。これにはいくつかその理由がある。大前提としての日本の就学率・識字率の高さ。外来文化を受け入れる柔軟さ。武士の気概。特に多分に無謀な「攘夷」思想。(実際、攘夷を実践した薩摩・長州ともに開国派に転じている。)攘夷実践のために、洋学を学び、実際に軍事技術を吸収しつつ、一気に転換していったこと。さらに、徳川慶喜の恭順。これは水戸学の血を引く将軍が錦の御旗に敗北したといえる。この判断が薩長についていたイギリスと幕府を応援していたフランスの代理戦争を、はからずも回避することになる。勝海舟の江戸を内乱に巻き込まなかったことも大きい。戊辰戦争が全国的なものとならなかったことが、最終的に植民地化を防いだともいえるわけだ。

こんなことを試験にしていたのだった。授業時以外、ずっとPCに向かっていた。ドライアイ?目の焦点が合わなくなってしまった。もう歳なんだよなあ。

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