2015年5月22日金曜日

日経 春秋「小菅留治先生」

昨日に続いて、日経の記事についてエントリーしたい。「春秋」である。内容は、小菅留治という師範学校を出たばかりの新任教師が山形県の小さな中学校に赴任した際の話である。
ここで主張されていることは、教師の資質はどこで磨かれるのかということである。大学での学びなのか。教師のなってからの研修なのか…。私は、ここに書かれている「熱い領域」という極めて文学的に表現されている部分だと思うのだ。

戦後まもないころ、師範学校を出たばかりの小菅留治先生は山形県の小さな中学校に赴任した。意気盛んな新人だったが、やがて壁に突き当たる。ひどく多忙で、思うように生徒も動かないのだ。すっかり落ち込んだその先生はのちの直木賞作家、藤沢周平さんである。
▼「一応は発達心理学なども勉強したはずなのに、何の役にも立たなかった」。藤沢さんは当時を振り返って「半生の記」に書いている。理屈と現実がかみ合わないのはどの職業も同じだが、こと教員ほどその落差に苦しむ仕事はないのだろう。しかし先生たちへの世間の注文もまた多く、制度改革の声が絶えることはない。
▼教員採用に全国共通の筆記試験を――。政府の教育再生実行会議がまとめた提言も、そんな資質向上願望が背景にあろう。能力を段階別に示した「育成指標」導入も打ち出した。かたや自民党では教員免許を国家資格にする案も出ている。そういう策で指導力抜群の、できる先生が輩出するはずだと構想はどんどん膨らむ。
▼小菅先生を元気にしたのは、結局は子どもたちだった。「私はその生徒たちがかわいくて仕方がなくなった。多分ここが教育というものの原点だったのだろう」。藤沢さんの教員生活は病気のためわずか2年で終わるが、教え子たちは後年、学校に記念碑を建てた。どんな制度改革も力の及ばぬ熱い領域が、教育にはある。                       
…このところ、教員の質の向上のために上記のような提言がなされているのだが、私の勤務する地域では、今の民間企業の「派遣社員」に近い存在である期限付き講師さんが増えている。私などが若い頃は、そういう存在は稀だった。本校でも多くの講師の先生方が頑張ってくれている。だが、それが正常な姿だとは私は思わない。この春秋で言われている「熱い領域」は、教師が生徒の学習面・生活指導面や部活の成長など全てにおいて、責任を持っているのだという自負が前提であると思うのだ。1年という期限を付けられての教育活動は、どうしても、そこまでで打ち込めないと思うし、また打ち込んではいけないと思うのだ。政府の教育関係者は、こういう現場の矛盾を解決して欲しいと念願する次第。教育は経済的効率を追求する場ではない。

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