2015年5月9日土曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート4

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ence+and+the+Scramble+for+Africa
このところ、アフリカのことをエントリーしていない。「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)で学んだ内容を久しぶりにエントリーしようと思う。今日は、アフリカの植民地支配についての確認事項である。やはり補足的な知識が面白い。

アフリカの分割の真実
19世紀後半までヨーロッパ列強は、一部(ケープと北アフリカ)を除いてアフリカの植民地化にあまり熱心ではなかった。この状況に変化をもたらしたのはベルギー国王レオポルド2世である。1880年代初頭にコンゴ盆地全域の権益を得ようとしたので、ドイツが会議の開催を呼びかけた。これが、アフリカ全土の分割に拍車をかけた。実効支配が進んだのである。とはいえ、この支配は他の列強を締め出すことが主眼で、本国の納税者は植民地に財政的自立を望んだ。統治費用の収入源はアフリカ人社会に見出すか、経済開発によって課税可能な所得源を生み出すことが必要となったのである。
イギリス得意の間接統治は、人件費削減という目的があったのである。一方、フランスは同化政策を打ち出す。アフリカ人が最高のフランス文明のエッセンスを獲得できると信じたのだが、セネガルなどでは成功したかに見えたものの画一的文化の押し付けに破綻をきたし、やがてイギリス流の統治を取り入れていく。白人の入植と商業用目的のために土地が収奪された「移民型」植民地では、アフリカ人の抵抗が長く続く。ドイツ領東アフリカのマジマジの蜂起、ショナ人とンデベレ人の一斉蜂起(チムレンガ)などがそれにあたる。一方、西アフリカでは植民地支配前数世代に渡ってヨーロッパの商業的文化的影響を受けていた故に、小農たちが商品作物を栽培し、富裕なアフリカ人商人のネットワークが形成されていた。厳しい気候と現地の病気のためヨーロッパ人の移民は難しく、ヨーロッパ化されたアフリカ人エリートが台頭した。すなわちアフリカ各地で、植民地化の過程で多様な動きがあったわけだ。

WWⅡのアフリカの脱植民地への影響
WWⅡで徴兵されたアフリカ人たちは、軍事経験をするとともに異なる地域出身者と接することになる。これは後の独立運動にも影響する。イタリアは北アフリカと東アフリカで植民地から排除されたし、フランスが降伏後は植民地も混乱に陥った。一方、戦中は戦略物資、復興期はアフリカの資源と開発が進められ、経済が発展する。この圧迫的な経済的変化は、商品作物の栽培の増産で食用穀物の生産が阻害され、多くの人びとが農村から都市に移動しスラムを形成した。この新しく流入した賃金労働者から植民地支配からの開放を支持していく。同時に、WWⅡ以降のアジアのナショナリズムの成功に大きな刺激を受けるのである。

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