2014年6月16日月曜日

司馬遼が書かなかった幕末

昨日の国際理解教育学会。早く会場に着きすぎたことを書いた。私の次にやってこられたのが、山口県・岩国市のM先生だった。国際理解教育の話題の後、少し幕末期の長州の話になった。当然、よくご存知であった。私たちが「長州」とひとくくりに言うけれども、本藩と支藩があって、出身地からくる人間関係もなかなか複雑らしい。勉強になったのだった。私が何故こんな話を出したのかと言うと、「司馬遼太郎が書かなかった幕末」(一坂太郎/集英社新書・13年9月18日発行)を最近読み終えたからだ。

本書の最後には、こうある。『よく、司馬遼太郎作品の読後感として聞くのが、「元気が出る」「勇気が湧く」「日本と言う国に誇りが持てる」しかしそれはある意味当たり前で、明るく、楽しく、勇ましい「歴史」を選って描いた「物語」だからである。』

この本は、司馬遼の「竜馬が行く」「世に棲む日々」における、坂本竜馬、吉田松蔭、高杉晋作らの史実との違いを、これでもかと暴いていく。たしかに司馬遼の筆力は凄いので、普通に読んだら、フィクションとは到底思えない。私は大佛次郎の「天皇の世紀」も読んだので、また違う観点から語ることも出来るのだが、それでもつい、司馬遼の描いたフィクションを史実と信じて授業で語ることもしばしばである。

竜馬は、ペリー来航を受け、西洋砲術を学ぶため、佐久間象山の塾に入門しているのだが、それは「竜馬が行く」には出てこない。ということは、ここで吉田松陰と出会っている可能性がある。しかし、全く作品にはふれられていない。これは私も知らなかった。

吉田松陰の天皇崇拝は「天皇の世紀」に詳しいが、司馬遼の作品では触れられていない。また松下村塾では身分を越えた塾と言うイメージがあるが、松蔭は身分制を重視していたようだ。高杉晋作の奇兵隊もしかりである。「草莽」と呼んだのも、民衆や庶民ではないようだ。奇兵隊の戊辰戦争後の話も悲惨である。

高杉晋作の上海渡航は、ヨーロッパ渡航が流れた故の話だったようだし、英国公使館焼き討ちの話では、いかにも幕府が長州に遠慮して老中レベルで政治的判断から下手人探しを打ち切ったように書かれているが、この英国公使館建設については、幕府も苦慮していたのだ。孝明天皇からも勅命があって建設を中止するように言われていた。英国と天皇の板ばさみである。それが、高杉らによって焼き討ちされたのだ。高杉らは、命がけで幕府を救ったことになったのが事実である。下手に下手人を探すと薮蛇となるわけだ。

長州の白石といえば、司馬作品によく登場する志士を支えた豪商ということになっているが、支藩ご用達の、政治力の弱い商人だったようだ。だからこそ情報力を武器に生き延びようと必死だったようで、司馬作品のイメージとは大いに異なる。

と、いうように書ききれないほど多くの史実との相違が書かれている。だからといって、司馬遼の作品としての価値が損なわれるわけではない。と、筆者も書いている。あくまでフィクションとして読むべきだというわけだ。…私としては、大佛次郎の「天皇の世紀」とあわせ読むことを、教え子たちには是非とも勧めたいと思う。

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