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春秋では、偶発的事件(サラエボ事件)が世界大戦に拡大したことをまず挙げる。「誰もが読み違えた。まさかという思いだったに違いない。その背景には欧州各国の相互依存が深まり、戦争は無益で意味のないものになったという時代認識があった。」「(戦争は無益だという論理展開があったのに)覇権国家だった英国の力が低下し、ドイツが膨張する中で力の均衡に変化が生じていた。国内の不満を解消するために関心を外に向ける内政的な思惑もあった。」
第一次大戦から学ぶこと。その第一は、偶発的な衝突は回避しなければならないということ。第二は、力の均衡の問題。バランスが崩れる時の危うさ。第三は、グローバル化が進む中でのナショナリズムの扱い。所得格差をはじめ社会の不満を外に敵をつくることで解消する動き。政治がナショナリズムを管理できるかという問題である。
…こうしてみると、まさに今、尖閣などで偶発的な事件が起こり、アメリカの覇権が中国によって崩されつつある時、内政の不満を外に向けるカタチで、無益だとわかりきっている戦争が起こる可能性を否定できないわけだ。危うい、と私は思っている。現政権も、中国も歴史に学ぶことをエポケーしている。いや、内田樹氏の言うように、そういう教養を持ちあわせていないのかもしれない。
春秋の最後に五百旗頭・前防衛大学校長の、次のような第一次世界大戦から100年の歴史を総括した言を挙げている。「第二次世界大戦の教訓は力をつけて勢いづく国に融和策をとってはならない。途方もなく弾みを与え、事態の収拾を不可能にする。」おそらく、チェンバレンの宥和政策を意識したものと思えるが、この第一次世界大戦の教訓と第二次世界大戦の教訓の相克こそ、今日の春秋の筆者の鬱勃たる思いではないか、と私は感じた次第。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO73394900X20C14A6EA1000/
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