自民党総裁の谷垣氏が総裁選出馬を取りやめたというニュースが流れた。野党に転落した自民党の総裁として、「捨て石になる」と宣言し、火中の栗を拾った谷垣氏であった。私自身は、自民党の支持者でもなんでもないが、「捨て石」という言葉には「美学」を感じる。
谷垣氏は、今回総裁選に立候補を表明した。総選挙があれば首相の目もあるわけだ。こういう時は、どっと総裁選に出馬する人が出てくる。谷垣氏では、自民党の選挙の顔としては人気不足だという理由で、結局総裁選出馬を撤回することになった。政治の世界は、所詮権力ゲームであるから、この流れは妥当な話なのだろう。谷垣氏はホントに「捨て石」になったわけだ。さてさて、「捨て石になる」と宣言した谷垣氏にとっては「本望」なのだろうか。あるいは、「捨て石になる」と言ったのは、単なる「ええかっこ」だったのだろうか。
政治の世界に限らず、「捨て石」になるというのは、凄い覚悟が必要だと思うのである。『葉隠』ではないが、「捨て石」になるということは、生き方というよりは、死に方と言ったほうがいいと私は思う。
いかに死ぬか。それはいかに生きるかということでもある。50歳を過ぎて、いかに美しく教師をやめるか、ということを考えるようになった。自分を取り巻く環境の問題ではなく、自分の気力・知力・体力上の問題で、私の思うような授業や生徒指導をが出来なくなったら、教師をやめようと最近考えるようになった。(今現在は、かなり体力的にきついことは事実だが、思うような授業も生徒指導も出来ている。今日も19:00過ぎまで文化祭で生徒と盛り上がっていた。…ご心配なく。)
「理想に生きることをやめた時青春は終わる」というのは、私の座右の銘だが、私には朱夏はない。白秋も玄冬もない。そんなことを考えていたのだった。…煙草、やめようかな。
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