昨日だったか何気なくTVを見ていたら、中沢新一が出ていた。中沢新一と言えば『チベットのモーツァルト』で売りだした、浅田彰と並ぶ私たちの年代のオピニオンリーダーの一人である。ポスト構造主義的な視点は今や大きな流れになっているが、私なども大きな影響を受けたものだ。TVでは、彼が代表をしている「グリーンアクティブ」について述べていた。ぼんやり見ていたので、あいまいな表現になってしまうが、「3.11以後、日本は変わったのだ。」という彼の言は、まさに私の中でも、ほんやりと「言霊」となったのだった。…なるほど。中沢新一の言おうとしていること、政治的危機感には共鳴できるものがある。知識人として、学術や文芸や言論の場だけではなく政治的にも行動することを彼は選択したのだった。
ところで、今、吉本隆明を読んでいる。もちろん文庫本だ。『世界認識の方法/中公文庫・本年8月25日改版発行)』初版は、古い。1984年2月10日。題名と、吉本隆明とフーコーの対談(1978年のことらしい。)が載っていたので思わず買ってしまったのだった。当然だが、かなり難解な本である。高校生に授業で説明するつもりで平易に最初の何ページ分かを解説してみたい。
吉本隆明は「戦後思想界の巨人」と呼ばれた左派の論客で思想家・評論家である。一方、フーコーはフランスのポスト構造主義の哲学者。吉本がフーコーに質問する。「マルクス主義を始末できるのか、できないのかということを考えている。フーコーさんは著作を読むと始末したように見える。意見交換をしたい。」それに対して、フーコーはおよそ、次のような回答をするのだ。
「20世紀の社会的=政治的な場における想像力が貧困になったのは、私はマルクス主義が重要なな役割を演じているからではないかと考えている。私がいかにしてマルクス主義と縁を切るかということを書いたのはそういう理由である。吉本さんが、マルクスとマルクス主義を分けて考えていることは正しい。マルクスは歴史的事件でありこれを抹殺することはできない。だが、マルクス主義は、権力のメカニズム・権力の力学の総体である。(フーコーは「権力」の分析で世界の構造を明らかにしようとした。)スコラ哲学や儒教のようにいかなる機能を演じたのかを分析する必要がある。私は、①理性的・合理的な考え方の中で、科学として扱われてきたこと。(マルクスの社会主義思想は科学的社会主義と称する。)科学である限り真理をめぐって拘束作用をもつ。②(唯物史観によって)予言性(資本主義社会はプロレタリアートによる階級闘争の勝利によって社会主義化する必然性がある。)をもっている。③フランス革命以前の国家はきまって宗教に基盤をおいていた。フランス革命以後は、いわば哲学(社会思想)を基盤に置くことになった。マルクス主義は、それが顕著である。これらの三側面から見て、マルクス主義の権力関係の力学から自由になることが、問題である。」
「マルクス主義は19世紀的で、そこにおいてしか機能していない。マルクスは決定的な真理の所有者ではない。さらに、マルクス主義政党下では様々な重要な問題が排除されてきた。…」
この後さらにニーチェの「意志」の話や階級闘争の「闘争」の意味が西洋哲学では解明されていないことが述べられていく。このエントリーではとてもそこまでは書けない。(笑)
さて、中沢新一である。フーコーは、マルクス主義の権力構造を覆すものとして、様々な社会的な運動に意義を認めている。知識人、学生、囚人、最も下層にある人々…。今の日本は当然マルクス主義の政治構造ではないが、「想像力が貧困」な政治状況であることは間違いない。権力をめぐる醜悪なねじれの構造が、さらに「想像力を貧困」にしている。私は別に知識人・中沢を応援する立場にはないが、少なくとも「哲学」がそこにある。あらゆる深刻な問題を前に、人気を得るためにはどう判断すべきかを選択し、小出しにしながら8つにまとめるような「無哲学」の輩よりは、はるかにマシだと思うのだが…。
2012年9月1日土曜日
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