2011年12月23日金曜日

「東條英機 処刑の日」を読む2

天皇誕生日である。陛下も78歳になられた。ご高齢にもかかわらず、公務に励んでおられる姿に秋篠宮様ではないが、ある程度皇太子殿下に振られてもいいのではと私も思う。しかし、陛下が無私の存在であられるがゆえに、内面で自らを突き動かす大きな力が働いているのではないかと私は考えてしまう。
その大きな力について、この「東条英機処刑の日」が回答を与えている。そう、今日が、東条英機をはじめとしたA級戦犯処刑の日である。正確には、昭和23年12月23日零時1分30秒に、巣鴨プリズンの特設の処刑場で土肥原、東條の絞首刑が執行され、次々に7人が深夜の露と消えたのである。東條英機処刑の日は天皇誕生日である。

猪瀬の文庫本「東条英機処刑の日」は、そのそも「ジミーの誕生日」という単行本を文庫化したものである。<本日の画像参照>「ジミー」とは、戦後学習院で英語の授業時に当時の皇太子・現陛下がつけられた呼び名であり、前述(12月16日ブログ参照)のようなミステリー的展開のキーワードである。『ジミーの誕生日の件、心配です』という子爵夫人の日記に記された「件」こそ、このことだったのである。

この本の解こうとするミステリーとは、GHQによって設定された3つの歴史的事実の符合である。
A級戦犯28人の起訴が昭和21年4月29日。東京裁判の開廷が5月3日であり、そのちょうど1年後新憲法が施行される。そして、A級戦犯の処刑が12月23日。

日本の天皇制は、GHQのプラグマティックな占領政策の効率重視によって守られたといってよい。天皇制を残すほうが、はるかにマッカーサーにとって都合がよかったのだ。しかし、世界的な天皇の戦争責任批判から、天皇を守るためには、東京裁判という場で、天皇を輔弼していた指導者に全ての戦争責任があることを証明する必要があった。それが東京裁判であり、昭和天皇の誕生日に、A級戦犯の起訴した。凄い謎かけである。裁判の間に、象徴天皇制を第一条に据えた日本国憲法を日本政府に認めさせ、東京裁判開廷1周年の日に施行。そして天皇の責任を全て背負ったA級戦犯には、皇太子の誕生日を設定する。

昭和から平成へと時間が流れる中でも、天皇家には、そういう戦後日本再生のための深い闇が楔のように打たれているのだった。おそらく、昭和天皇は、皇太子の誕生日を心から祝えなかったのではないかと推察する。同時に自己の誕生日もである。無私に生きた昭和天皇も、無私に生きる今上天皇も、自分の誕生日の裏側に日本再生のための暗闇を内在していたのだった。

私は、この昭和天皇の戦争責任についてはあるともないともいえないと考えている。大日本帝国憲法を普通に読むと天皇主権で強大な権力をもっているように読めるが、同時に内閣が天皇を輔弼し、政治的責任をとるとある。伊藤博文の奇妙な安全装置が存在すると同時に、山縣有朋の統帥権という危険な暴力装置も存在した。構造的な欠陥が旧憲法にはある。昭和天皇は、2.26事件を始め軍部がお嫌いだったようだ。山縣の天皇制軍事国家は、軍部の片思いだったのである。

新憲法で、はからずも天皇は「権力」から本来の「権威」に復帰した。そのためにA級戦犯という人柱が必要だったのだ。この儀式は、天皇と皇太子の誕生日に合わせて行われた。この事実、教科書に書かれてもいいと私は思ったりする。誤解のないように申し述べたいが、私は改憲派でもないし、護憲派でもない。親米派でも反米派でもない。日本の近現代史は、天皇制という国体を抜きには語れないということを教えてもいいのではないかと思うのだ。

だからこそ、天皇は無私の存在として、日本に存在する。猪瀬直樹は、ミカドの肖像以来、山口昌男の周縁論的な天皇論を支持している。全てのことを飲み込む巨大なブラックホール。猪瀬は、天皇制を山口昌男と「ミカドと世紀末」の中でそう論評している。私も猪瀬と同様の立場にあるといってよい。

私は、陛下がご高齢にもかかわらず、被災地を7週連続で訪問され、被災者の方々を激励されたことに、「天皇」の姿を見る。昭和天皇の背負われたあいまいな戦争責任を贖罪するために沖縄や世界各地を訪問された姿に「天皇」の姿を見る。日本の悲しみも喜びも全てを飲み込むブラックホールたる「天皇」の姿をみるのである。…陛下のご健康とご長寿を心からお祈りしたい。

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