2011年12月4日日曜日

「貧困の僻地」バナナの話

昨日エントリーした曽野綾子の「貧困の僻地」の中で、カメルーンの600km奥地に行く話がある。5人の保安警察車の分隊を正規に契約して雇ったそうだ。彼らはカラシニコフ、ピストル、手榴弾などで武装した職業軍人だった。曽野綾子は、ケチな性分(と自分で言っている)故に、日当を出発時に半分、首都に帰りついた時に半分払うと言う条件で契約した。その彼らが、残りの金を少し払って欲しいと言いだした。軍人たちは規律正しい好青年だったので了承したのだが、彼らが金を使う場所はない。不思議だったのだが、その答えは帰路に判明した。彼らの車は、途中の町や村で停、バナナを房ごと買っていたのだった。間もなく警察車の荷台はバナナで人間の姿が見えなくなってしまったという。バナナの値段は都市部とこうした地方ではひどく違う、安く買って帰れば奥さんたちが喜ぶのだろう。曽野綾子は、こう書いている。『私は彼らがバナナの陰に座っているのを見て、バナナは弾よけにはならないだろう、などと考えていた。』

どこでも同じようなものが買える制度を持つ国家には僻地がない。曽野綾子は、ここから、民族語や貧困による教育の問題を論じていく。近代国家論である。体験に裏付けられていて、なかなか鋭い。

もうひとつ、この本でカトリック曽野綾子のアラブ観を表した個所を紹介しておきたい。イラクのフセインと復讐についての話なのだが、そのまま引用しておきたい。『私は聖書で「隣人」という概念を教えられた。隣人への愛は、聖書の中で何度も繰り返し、強くうたわれていることである。「愛」が聖書の基本である。一神教は復讐を勧めるなどと書いている日本人の哲学書や宗教評論家がいるが、聖書には全くそんなことが書かれていないので、私は驚くほかない。イエスはユダヤ教徒であった。従って彼が生きていた時代は、旧約的ユダヤ社会であった。その中で「隣人」に当てられている言葉は「レア」というヘブライ語で、これを理解しないことには、当時の人々の感覚、ひいては現在のイスラム教徒が持続して持っている「レア」=隣人は、同宗教、血の繋がりだけを意味する。日本においては、昔の隣組も隣人であった。同じ村に住めば、喧嘩をしていることはあっても一応隣人である。少なくともそういう顔をするのが常識であった。隣人のほとんどは他人で婚姻関係もなく、宗教もさまざまである。しかしそれでも隣人である。しかしアラブにおいては、そんなことはない。』

「正しくったって間違えていたってどっちでもいいのだ。おまえの兄弟を支持しろ」等というアラブの格言をあげて、アラブの人々は、この「レア」的隣人の感覚で今も生きていることを曽野綾子は主張している。
なるほどなあ。コトバ、特に、翻訳されたコトバの裏にある世界観を知らねばならないという典型的な話である。

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