ニュージーランドの地震のニュースが続いていて痛たたましい。特に、国際協力のために、スキルアップしに留学していた看護師さんの話など、心が痛む。さて、昨日の投稿への、哲平さんと中村君へコメントの返答を書いていいて、ふっと、ある言葉がよぎったのである。
「もし、北朝鮮に自由に入れるようになれば、私はすぐに行きたい。神の教えを説くのだ。」
これは、私がNYCを訪れた後、ソウル経由の便で帰国する際のソウル空港で、偶然横に座ったニュージーランド人牧師との会話の最後に彼の口から出た言葉である。
私は、トランジットの時間つぶしに、NY滞在の記録ノートの空白に、様々なチケット(エンパイアステートビルやユダヤ博物館など)をスティック糊で貼っていた。(こういう文具を私は海外旅行で持ち歩いていた。最近ハサミが使えないのでやめたが…。)彼は、横からそれを眺めていて、ふと目があったのだ。彼は、「あなたは、ニューヨークへ行ってきたのか。」と聞いてきた。「ええ。ユダヤ教を見てきた。NYはジューヨークだからね。」と私は答えた。すると彼は意外な言葉を発した。「ユダヤ教は間違っている!イエスを救世主だと信じていない。」
「…。」ここで、彼は、自分が教会(英国国教会/アングリカン/聖公会、いろいろな言い方があるが…。)の牧師であり、日本とニュージランドを常に行ったり来たりしていると自己紹介した。日本では教会で英会話も教えているそうで、「ダカラ、ニホンゴ、スコシ、ハナセマス。」(笑)
そこから2時間近く彼と、英語と日本語のちゃんぽん会話が成立したのである。(英語だけなら、2時間は絶対無理だ!)話は、彼のユダヤ教批判から始まったが、私は、ユダヤ・キリスト・イスラム3宗教の神が同一なのに、なぜにいがみ合うのか、また殺し合うのかを問うた。また、十戒の『汝殺すなかれ』が何故6番目なのかと批判した。仏教徒から見た、一神教の最大の問題点である。彼は、英語と日本語を駆使しつつ弁明し、最後にはヨハネ福音書を引き、「神は、殺人や戦争を否定してはいない。」と述べた。「そら、あかんやろ。」と言うと、「あなたのブッダという神は、殺人を否定するのか。」と聞いてきたので、「ブッダは、法を悟った人間であり、神ではない。大乗仏教ではあなたの中にもブッダがあると説いている。」などという、完全に平行線の宗教談義をしていたのだった。
長い宗教談義の後、彼は「日本人は間違っている。彼らはオカネを信仰している。それを、東南アジアの人々も追随している。」と述べた。「特に若者はひどい。彼らは幸せについて深く考えていない。」とも言った。私は、これについては同感だと述べて、握手したのだが、最後に彼が、冒頭のコトバを吐いたのである。私は、宗教的な立場こそ違うけれど、感動した。彼の言は毅然かつ断固としたものだったのだ。
もういちど、彼の言を引く。「もし、北朝鮮に自由に入れるようになれば、私はすぐに行きたい。神の教えを説くのだ。」
人間の幸福とは何か。立場こそ違え、彼のコトバに考えされるのである。
彼が、今回の地震の被害に遭っていないことを、他の多くの行方不明となっている人々の生存とともに祈りたい。
2011年2月24日木曜日
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タイには仏教があります。ほとんどのタイ人は仏教を信じています。そして、日本人より幸せそうであるし、自分の置かれている状況を受け入れているように見えます。
返信削除日本にはほとんど神秘的なものを信じる精神が希薄です。そのため、自分が置かれている状況を受け入れらず、結果として拝金思考につながっていると思います。
私は大学生活で政治と向き合いましたが、政治は分配しかできません。幸福、愛、正義について語るには宗教というフィルターを通す必要があるように思います。
それもタイ人に学んだことです。
哲平さんへ
返信削除幸福になるためにオカネが必要なのは言うまでもありませんが、宗教的信仰がそれ以上に必要だと私も思っています。経済的な幸福と精神的な幸福は、車の両輪のような存在だと思います。タイの人々はその辺うまく調和がとれているのだと思います。
NZの牧師との対話は、彼の宗教者としての使命感でもありますが、そう言い切れる彼の精神に敬服しました。私は、一神教の研究を多少していますが、批判的です。が、それ以上に、彼を一個の人間として尊敬するものです。