2011年2月19日土曜日

京大 アフリカ研 公開講座

京都大学 飯盛財団記念館
京都大学に行って来た。京阪丸太町駅からすぐの川端通り沿いの薬学部の近くに飯盛財団記念館というのがあって、ここにアフリカ地域研究資料センターがある。先日、ネットで公開講座の存在を知り、さっそく申し込んだというわけだ。今日の講座は、島田周平先生の『可能性に生きる』という、ザンビアの農村の研究だった。が、私が馴染んでいるアフリカ開発経済学とは、ちょっと視点が違う。
島田先生は、「学問の専門化が進むと見えにくくなる問題がある。アフリカの「貧困」を経済学的に狭義に定義すると農村社会の多くは1日数ドル以下の貧困社会となる。しかし実際に日常生活を見てみると、「貧困」では推し量れない何かがある。」と言われる。『地域研究』という学問は、政治学、経済学、社会学、文化人類学などの専門化した科学を利用しながら、専門性の壁を意識しないで『全体的な理解』をすることが地域研究と定め、さらに成果を専門科学へと問いかける存在だと規定しておられる。ただ、この『全体的な理解』の方法論が明確でないゆえに、これからの学問だと謙遜されていた。先生は、長年にわたってナイジェリアとザンビアの農村のフィールド・ワークをされているが、今回はザンビアの農村の話を中心に、『脆弱性』という視点を提起された。アフリカを、長年多用されてきた近代化という視点や、貧困(アマルティア=センの貧困ではなく、数値的に規定する貧困)という開発経済苦的視点、あるいは政治的なガバナンスの善し悪しといった視点で読み解くのでははなく、新たな『脆弱性』という視点を提起されたのである。

では『脆弱性』とは何か?干ばつや虫害、家畜の疫病、地力低下などの「自然的リスク」、政治的疎外や経済的周辺化、病気や人の死亡などの「社会的リスク」の2つから構成される『リスクにさらされる危険性』と、在来技術や在来知の無効化や組織や制度の機能不全、近代技術や援助の不適合などの「自然的リスクへの対処能力」と、組織や制度の機能不全、政治的疎外などの「社会的リスクへの対処能力」の2つから構成される『対処能力の欠如』で構成される。

この『脆弱性』、自然や社会のリスク、また対処能力の欠如によって増大する。ところが、これをザンビアの農村では、個人として、世帯で、あるいは一族で、緩和させていた。政治的変革が生んだ森林保護区への入植やNGOの開発援助と村長の対立から生まれた村民追放、過剰な死(おそらくは、HIVエイズによる)、一族の共同耕作という相互扶助作業の再考、村の貯蓄・貸付組合の私物化と新しい小規模金融の誕生などの、ストーリーを通じて、島田先生は、こう結論付けられた。「慣習法や伝統的組織、近代的法律や公的組織の間で彼らは、社会科学的・法則的に動いたわけではない。その時の状況に応じて、脆弱性の緩和を求めて動いている。様々な出来事の縁起的展開をつぶさに見ること、すなわち専門性(社会科学)の壁を乗り越えねばわからないことが多い。地域研究の学問的意義はここにある。」と。

うーん。さすが京大。出来るだけ平易にまとめたつもりだが、公開講座のテーマが『アフリカ研究最前線』である。ご勘弁願いたい。さて、この講座、参加費が1000円なのだが、カラー印刷のレジュメとノートまでついたフォルダと京大オリジナルのボールペン付き。休憩時には、ソフトドリンク無料。終了後の茶話会ではワインなども出てくる。うーん。さすが京大。次回も参加しようと思ったのであった。
そして、なにより、驚きのエンディングだった。ブルキナのワガドゥグで荒熊さんと共に出会った京大のアフリカ研の研究員・Eさんと再会したのだった。あの時、私は日本から持ってきたカップヌードルをフィールドワーク中のEさんに進呈した。その時のことをよく覚えていてくれて、アフリカ研の所長さんにまで紹介していただいたのだった。Eさんは、4月にまたブルキナに行くそうだ。メデタシ、メデタシ。

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