2011年2月22日火曜日

イスラームは「公」足り得るか

 昨日の「公」と「私」の話の続編である。リビアでの『騒乱』(マスコミはこう表現している。違和感のある表現だ。)がさらに拡大化している。もし、カダフィ政権が倒れれば、その影響は凄い。チュニジアやエジプトは、北アフリカでも、かなり親欧米の国で、欧米的価値観が流入しているわけで、近代化という観点(あくまで欧米的価値観における近代化である。)から見れば、ガバナンスが悪く、個人としての市民意識が強まり、ついに”革命しちゃった”という感じなのだが、リビアとなると、”革命しちゃった”ではすまない。専制君主国で、国際世論を無視して、空軍が国民を銃撃する国である。最も言論統制された、いわば北アフリカの北朝鮮のような国である。リビアがぶっ倒れれば、中国をはじめ全世界の反政府組織は大きな自信をもつはずだ。大混乱が予想される。パンダが日本にやってきたなどと騒いでいる平和日本は、世界の動きから完全に浮いている。

 さて、今日、私は「公」が、チュニジアやエジプトで成立するだろうかと、ずっと考えていた。福沢のいう「公」は、明治期における「私」を制限するルールである。日本には、それ以前「私」をもって実存しえた人々は少ない。戦国時代の終了後、将軍や大名といえど基本は「公」であったと思う。(殿様の通信簿/磯田道史・新潮文庫を参照)日本の近世における朱子学の影響はきわめて大きい。「私」で生きることは悪であり、それがゆるされない社会であった。

 チュニジアやエジプト、あるいはリビアで、「公」となりうるのは、当然イスラームであろう。イスラームは、神のもとの平等を強く強いている。イスラームは、神への服従であって、宗教的な律法も当然あるが、社会的世俗的な法としても生きている。ならば、「公」に十分なりうるように思われる。

 さて今日のWEBニュースで、こういうのがあった。『フランス通信(AFP)によれば、イスラム教スンニ派に強い影響力を持つイスラム法学者カラダウィ師 は21日、「(カダフィ大佐を)リビアから排除するため」、リビア軍兵士は大佐を銃撃すべきだとするファトワ (法的見解)を示した。』

 ところで、私は、上記の「ファトワ」の存在に、イスラームが「公」になりうるか否かについて、大きな疑問を呈せざるを得ないのである。神の意志に従って生きることが最重要なムスリムにとって、その意志を代弁するイスラム法学者の言葉は極めて大きい。彼らが全ての発言を恣意的に捏造しているとは思わないが、彼らは完全なる「公」だといえるのだろうか。時に宗教指導者によって、神の意志(コトバ)が異なる場合もある。彼らが「私」となる可能性も十分あるのである。ここで、私はうーんと唸るのである。

 この「公」、「私」を抑える概念であるとともに、資本主義を飼いならす概念でもある。イスラームが成立した時代とは大きく異なる。ここでも、私はうーんと唸るのである。

 イスラームは「公」足り得るのか。「私」を抑え、新たな国家を作っていけるのだろうか。あるいは、トルコのように政教分離し、欧米的な「民主主義」への完全な移行を行うのか。またまた、私はうーんと唸るのみである。

追記:「アフリカのニュースと解説」を書かれているMiyaさんから「空軍が国民を銃撃する国」という私の表現に対して、マスコミ報道をうのみにするのは危険ですよというコメントいただきました。Miyaさんのブログを見てなるほどと思いました。カダフィ大佐の二男の演説は凄いです。是非、リンクから「アフリカのニュースと解説」をご覧ください。

2 件のコメント:

  1. 毎日拝見しています!  「空軍が国民を銃撃」というところ、私は疑問視しています。リビアに関するエントリーを掲載しました。少し長いのですが、お読み頂ければ幸いです。

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  2. Miyaさんへ。読みました。凄い内容です。今更ですが、マスコミの恐ろしさを感じますね。カダフィの二男ななかなかの人物だと聞いていましたが、彼の演説の内容には圧倒的な重みを感じます。リビアが崩壊したら、彼の言うように、首長国に分裂し、結局欧米の再支配を呼ぶことになりますね。誰が石油のレントをうまく分配できるのか。しかもリビアはあまりにヨーロッパに近すぎる。よくわかります。冷静な分析です。「空軍が国民を銃撃」も、真実だとは限らないし、傭兵のスタンスもよくわからいですね。ありがとうございます。勉強になりました。

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