2010年11月22日月曜日

水戸学の聖地で慶喜を想う


水戸・偕楽園の梅林
  所用で水戸へ行って来た。土曜日の夕方、新幹線「のぞみ」で東京へ。上野駅近くのホテルで1泊して、翌朝常磐線の「スーパーひたち」という特急に乗って水戸へ。午後、今度は、「フレッシュひたち」で上野に戻り、熱海まで「こだま」に乗車、1泊して今日は「ひかり」で帰ってきた。私は、列車に乗るのは決して嫌いではないが、疲れた。宮脇俊三氏(11月17日付ブログ参照)はエライ。(笑)

 水戸では、偕楽園と弘道館に連れて行っていただいた。偕楽園は、日本三大庭園の1つ(高校生の就職試験に良く出る)で、私は後楽園・兼六園には、行ったことがあるので、ついに50を過ぎてビンゴしたのである。(笑)偕楽園に入る前、常盤神社と義烈館という資料館に入った。境内図を見て、義は、義公(徳川光圀)、烈は烈公(徳川斉昭)とすぐ分かった。中には、かの義公が編纂を指示した「大日本史」全巻があった。うーむ、感激である。烈公の倹約を指示した「農人形」も初めて見た。なかなか水戸は深いのである。この義公・烈公を祀っているのが常盤神社であった。義公は、高譲味道根之命(たかゆずるうましみちね の みこと)、烈公は、押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたて の みこと) というらしい。明治15年に別格官幣社となったという神社である。やはり、水戸は水戸学の聖地である、義公・烈公は、文字通り神格化されていたのだ。偕楽園は、梅が有名だそうだ。当然その季節ではないので、すこし閑散としていた。とはいえ、良い。紅葉の季節、天候にも恵まれたのも幸いである。
水戸・弘道館にて
 さらに、弘道館へも寄ってもらった。弘道館と言えば、水戸学の中心であり、かの徳川慶喜が江戸の上野寛永寺で謹慎後、ここでさらに謹慎していたところである。正面玄関には、凄い筆力の「尊攘」という掛け軸があった。今にも血が吹き出そうな筆である。奥の方に、慶喜の謹慎していた部屋があり、そこにフツーに入れるのである。素晴らしいスタディツアーであった。我が受験に使わない日本史Bの生徒諸君を連れてきたいと思った。今度の授業で、せめて「行け!」と言っておこう。

 熱海のホテルで、「龍馬伝」を見ていたら、ちょうど慶喜が大政奉還をするところだった。「龍馬伝」の演出では、慶喜を熱情家的、悪役的に描いているが、慶喜はそんなタイプではないと私は思っている。慶喜に対しては、司馬遼と山岡荘八で評価が180度違う。司馬遼は、まさにボロクソに描いているが、山岡は私のオリジナルで恐縮だが「水戸の呪縛」ともいうべきポリシーをメインに置いて描いている。

徳川慶喜
  水戸の呪縛とは、ひとつは、烈公の呪縛であり、もうひとつは義公の呪縛である。烈公は、水戸では人気があるようだ。それは今回良くわかった。良い面でも悪い面でも凄い人物であった。そもそも江戸常駐をゆるされた(つまり参勤交代しなくてよい)水戸家は御三家の中でも最も録高が少ない。江戸にいた烈公は、藩の改革に打って出る。これは地元にいないゆえに、かなり困難だったと思われる。藩士も江戸詰めと地元に分れていたわけだし、そもそも内紛が絶えない事情もそこにあるのだが、これをまとめたのだから、尋常な藩主ではない。しかも、息子が多い。正室は有栖川家からもらっているが、それ以外にもバンバン側室をもって、ガンガン他の藩に養子に出している。その一人が、御三卿の一橋家に養子に出た慶喜である。例の一橋派と南紀派のもめごとのもとは、斉昭の息子故に大奥が反対したからである。(斉昭は大奥でトラブルを起こしている。)斉昭の息子である故に、慶喜は将軍になれなかったのである。これが烈公の呪縛である。以来、聡明で素晴らしい集中力をもつこの貴族の青年は、自重することを旨としたようだ。安政の大獄の時の謹慎の姿はあっぱれだったらしい。一方で合理的な思考(豚肉を食するとか)、整合性のあるするどい論調をはり、しかも雄弁であるとか、まさに烈公以上に尋常ではない貴族青年であったわけだ。

慶喜・謹慎の間をのぞむ
  一方、義公の呪縛とは、水戸藩全体の呪縛である。水戸藩は、義公の大日本史編纂とともにある。以来強烈に尊王の立場である。家康の深い思索ゆえか、御三家でありながら将軍を出さない家であるとともに天皇家を守る立場を与えられていた。慶喜にとって、尊王は”思想”ではない。”DNA”なのである。この点を山岡は何度も主張している。大政奉還は、江戸幕府は滅んでも、徳川家が残り、他の雄藩とともに政治をリードできるとふんだ慶喜の計算の結果であったと思われる。それが、岩倉や大久保の策略で、吹っ飛ばされるのだが、何より慶喜が、貴族青年的脆弱さを露呈したのが、鳥羽伏見での錦の御旗の登場であろう。「朝敵」になるということが、彼には到底耐えられなかったのである。で、江戸逃亡という、ありえない選択を行うのである。司馬遼は士道という観点からコテンパンに批判する。山岡は水戸の尊王DNAから理解を示す。おそらく両方当たっているのではないか。私は偉大な作家の意見を止揚して生徒に教えている。 
 とはいえ、慶喜が凄いのは、その後である。上野・寛永寺での謹慎、水戸での謹慎、そして駿府での隠遁。日本の権力の最上位にいた稀なる能力のある人間が、人生の大半を謹慎・隠遁で過ごすのである。慶喜が自分を全力で抑えたからこそ、明治維新は成ったし、その後の明治はあったのである。私は、やはり凄い人物だと思っている。彼もまた常人では測れない”政治的”サムライなのである。

 水戸の中心街には、映画「桜田門外の変」の幟(のぼり)がたくさんならんでいた。弘道館でもロケをしたようだ。あまり映画を見ない私だが、見に行こうかなと思った次第。 

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