鵺:(ぬえ)平家物語などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇の、日本で伝承される妖怪や物の怪である伝説の生物。この意が転じて、得体の知れない人物をいう場合もある。今朝読んでいた佐々淳行氏の「わが軍師論」の中で、鳩山前首相や民主党政権に対してこういう表現をしていた。(このブログで、この話題にはあまりふれたくない。佐々氏の指摘するところはよく理解できるが、あえて不愉快な話題について書くつもりはない。)ただ鵺という言葉のもつ言霊に、ちょっとビビッと来たのである。
今、日本史Bで、大日本帝国憲法の話をしている。明治14年の政変で、大隈重信が辞任するのだが、彼は司馬遼の言い方では、「国民を個人として自立させるため、英国憲法を基盤とするべきだと主張した。」らしい。伊藤ら他の参議は、成文法ではなく、慣習法である英国憲法を日本に根付かせるのは、極めて難しいと判断した。確かに私もそう思う。イギリス経験論に裏打ちされた伝統が英米にはある。これを日本にというのは厳しい。群雄割拠していたドイツをまとめたプロシアは、明治維新に重なるし、産業革命も遅くれたというのも日本に重なる。ドイツの観念論に裏打ちされた合理的精神から生まれた成文法も、わかりやすい。そこで、日本はプロシア憲法を元にするのである。まあ当時の状況からは妥当だと思う。言い換えれば、日本政府は、”個人”としての自立を問題とせず、皆兵となる”国民”を作りたかったのである。”市民”をつくりたかったわけではないのだ。
ひどく社会学的な話になるが、私たち日本人は、国民なのだろうか、市民なのだろうか。個人として自立しているのか、いなのか。この話題は、先日紹介した「アフリカから学ぶ」の、「アフリカの地方分権や市民運動」にも出てくる。うーん。、私は社会の教師だが、この辺、非常に勉強不足を感じている。で、「鵺」なのだ。日本人は、英米的な経験を基礎に泳ぐプラグマティックな側面をもつが、それだけではない。ドイツ的な合理主義的なロジックに即して生きる生真面目さを持っているが、合理主義で押し通すことは苦手だ。それよりも感情的な部分を大切にする。まさに鵺である。市民でもなく、国民でもなく、個人主義でもなく、地縁・血縁の集団主義のみでもない。5・6限の現代社会でのアフリカ・バーチャルツアーが盛り上がって終わってから、何故かそんなことを考えていたのであった。もっと社会哲学をやらねば。次の課題がうっすらと見えてきたのであった。
さて、大日本帝国憲法の話にもどる。司馬遼のプロシア憲法有利の説明の最後にこんな事が書かれている。「それに、ドイツは田舎である。」これは、おそらプロシアが、ローマ帝国領でなかったことを指している。(司馬遼の街道を行く:愛蘭土紀行に、そのことが書かれている)
自虐的に言えば、ユーラシア大陸の果てに住む我々日本人は、超田舎者故に、グローバル・スタンダードから見れば「鵺」のかもしれない。
追記:NHKの世界街歩きがバスチーユだったので見ていました。パリはあまり好きではないのですがなつかしい。OGのあやっぺが、いつか歩くことになるかもしれないと思いつつ見ていたのでした。さて、明日はオープンスクールで登校日です。その後、夜の新幹線で所用のため東京へ向かいます。2泊3日の予定故、ブログ更新は2日間はお休みをいただくことになると思います。
2010年11月19日金曜日
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