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パウロの救済観は、人間は何か善を行いたいと意志は持っていても、行っていることは悪ばかり、どんなに善いことをしようと思っても出来ない。この感覚がパウロには強い。パウロのキリスト教になると、人間の行為に対してなんの価値も認めない。救済は絶対他力になる。
それに対し、「信仰と行為」によって救われるとカトリックや正教会は考える。正教会がヨハネと結びつきが深いのは、「ヨハネによる福音書」の有名な冒頭、『はじめに言葉ありき、言葉は神とともに合った』とあるように、言葉=潜在するロゴス、この自然の中に神の意志がり、たとえイエスを迂回してもただしい言葉を使えば神の元へ行ける、聖霊がロゴス、論理、言葉となってこの世には満ち溢れており、そちらからでも救済は可能。キリスト教徒以外も霊が満ち溢れているからそのパワーによって神に行き着くことさえ可能という発想らしい。(上記画像は正教の教会)
このカトリック・正教会に対し、パウロの発想は、近代人にシンクロされやすかった。神は上にいるという中世の絶対的存在から、地動説などによって、近代では常識の中で、心のなかに神がいるというプロテスタント神学が生まれた。心の中で罪を思うこと、神との対話などを全部押し込めたからである。パウロの救済観を元にしたプロテスタント神学が、キルケゴールの単独者という宗教的実存や、ヤスパースの超越者・包括者への暗号読解の実存主義の基盤がここにある。
…このペテロ、ヨハネ、パウロの三系統の記述、実に興味深いと私などは思う。
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