ブルキナファソ/サヘルの村の宿にて |
西田哲学に来るまでに、導入として、川端康成のノーベル文学賞受賞講演「美しい日本の私」と和辻哲郎をやり、日本仏教の基軸となる大乗仏教の哲学(龍樹・世親・馬鳴)を復習し、天台のところで「一切衆生悉有仏性」をみっちりとやった。念仏の易行・専修念仏以前はこの天台の観想念仏だし、禅もここからスタートする。当然ながら、日本の仏教を西洋哲学的に説いた西田哲学とも相性がいい。
「一切衆生」は、『主客未分』の存在である。「仏性」とは、『純粋精神』のことであり、「悉有」、この純粋精神のある場所=『絶対無』を意味している。これはは、世親と馬鳴の阿頼耶識・如来蔵のことである。最も難解な『絶対矛盾的自己同一』も、この絶対無の場所にあり、和辻哲郎は、これを日本人の特性として「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」と表現している、ということで着地した。
特に、純粋精神の説明には、ブルキナファソでの経験を話した。サヘルへ1泊2日で4WDで英語ガイドのオマーンと行った帰路、長い長い坂味を重い荷物を載せた自転車を漕ぐ一軍と遭遇した時の話だ。彼らを見た刹那、涙が止まらなくなった話だ。主客未分の仏性の湧現。オマーンが「自らもあの仕事をした、ブルキナファソではあたりまえなんだ。」と言った話だ。それまでの経過や興味深そうな話も交えて今回は実にうまく話せたと思う。生徒たちは真剣に聞いてくれたので、実に嬉しい。この西田哲学に向けて、多くの伏線を張り巡らしてきたことが活きたと思う。
正直なところ、今年の倫理の授業(源流思想+西洋哲学史+日本思想史)は我が教師生活・最強のレベルで、優秀な学園の生徒に効率的に時間を使い、受験科目としての重責を全うしながらも、すべらない話も入れて、ほんとベストの出来だと感じている。もう悔いはないというのが本音である。
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