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長男のフリードリヒ・ヴェルヘルム4世は、「ひらめ」という身も蓋もないニックネームで呼ばれている。パッとしない容姿故だが、不定詞王の息子らしからぬ弁舌家だった。こういう前王を面々教師とするのがプロイセン王家のパターンである。(笑)軍事気質から遠く、優柔不断なわりに古風な王権神授説にこだわった王であった。とはいえ、産業革命とブルジョワジーの台頭の時代で、政治信条は後ろ向きだったが科学文明には前向きで、王太子時代にベルリンからポツダムまで鉄道が開通するとさっそく旅を楽しんだし、前述のラインラントでルール炭田が発見されると、いきなり重工業を発展させた。一方で、ゴシック建築のケルン大聖堂の建築、廃城になっていたホーエンツォレルン城を再建している。
1847年、フランスで二月革命が起こる。ウィーンに飛び火しメッテルニッヒが失脚・亡命。さらに、ブダペスト、ベルリン、バイエルンと革命闘争が拡がった。ひらめ王はある程度の譲歩をすることで済ませようと連邦議会の開会を布告。しかし警備隊に投石があり発砲したのがきっかけで市街戦となる。ひらめ王は、ベルリンから軍を引かせ、軍の支持者だった弟をイギリスに逃した。もし弟(王太子)が王なら軍を使って大弾圧していただろうと思われる。ひらめ王は、結局自由主義内閣を発足させる。しかし立憲君主制か共和制かで揉め、国民の間に革命への倦怠感が蔓延し、オーストリアで革命を抑え込んだのを覧て、軍をベルリンに戻し議会を解散した。プロイセンはうまく抑えたわけだ。しかし、他のドイツ各地の領邦の革命派はフランクフルト国民議会を開き「ドイツ帝国憲法」を可決、プロイセンのもとでオーストラリアを除外しドイツ統一をひらめ王に謁見して要請した。だが、王権神授説的なひらめ王は、国民の同意ではなく各君主の同意でなければ受ける気はなかった。帝冠を「豚の王冠」と呼んだくらいである。一時は、オーストリアやバイエルンなどを除いた「ドイツ連盟」を結成したが、ハプスブルグ家とロシアに睨まれ撤回した。失意のひらめ王はクリミア戦争にも中立を守り、4年間病に臥せって死去した。
兄のひらめ王の後を継いだのは、1歳年下の弟・ヴィルヘルム1世。で、61歳で摂政。もうすぐ64歳になる1861年ようやく戴冠。数カ月後、バーデンバーデンで暗殺未遂事件が起こる。「ヴィルヘルム1世ではドイツ統一はできない」という理由で、弾は首筋をかすっただけだった。王権神授説を信ずる彼は神の思し召しだと自信をつけた。ここに、プロイセン最大のスーパースターが登場する。鉄血宰相・ビスマルクである。
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