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フリードリヒ2世は、父王である兵隊王に「笛吹きフリッツ」と罵られていたばかりか虐待を受けていた。教養あふれる息子に自分の無教養を軽蔑されていると感じていたようだ。それと王太子が、女性になんの関心も示さないことであったことも大きかった。18歳になったころ、数学と建築学を共に家庭教師に学び、フルート仲間でもあったカッテ少尉とイギリスに亡命しようとしたことがある。すぐ捕まえられ、王太子の眼前でカッツは斬首され、王太子は失神したといわれている。廃嫡の危機を母とハプスブルグ家のカール6世に救われ、カッツの遺言を読み、それにしたがい、父と和解し恭順、父の死まで10年間雌伏した。
1740年、28歳で戴冠。すぐ拷問と検閲の廃止、オペラ座建設、貧民対策、アカデミーの復活などの啓蒙主義的制作を打ち出す。周辺国は文人だと軽く覧ていたが、意外なことに軍備を拡張する。この半年後、オーストリアのカール6世が突然逝去した。生前から、男児がない故に娘のマリア・テレジアに継がせることを予め各国の了承を取っていた。フリードリヒ2世は宣戦布告もなしに、チェコの北側、現在はポーランドの南西部であるシュレージェン(ポーランド語ではシロンスク。ヨーロッパ有数の炭田がある。)へ攻め込んだ。これをきっかけに、フランス・スペイン・イギリス・ザクセン・バイエルンなどが介入し、8年に及ぶオーストリア継承戦争が始まる。フリードリヒ2世の言い分は、シュレージェンは、かつてドイツ諸侯が統治していた地で、ホーエンツォレルン家の領土もあった。だから、マリア・テレジアの継承を認める代わりに割譲することを要求してきた。住民のほとんどはプロテスタントであり、カトリックに迫害されておりプロイセンに救いを求めている、というものであった。
フリードリヒ2世の初陣は、途中で戦場から逃げ出さねばならぬほどだったが、自軍の元帥の勝負手で一気に巻き返したという苦いものだった。(モルヴィッツの戦い)その後ショトゥジッツの戦いにも勝利し、こんな手紙を残している。『そんなわけで、私は13ヶ月の間に2度勝利を収めた。数年前には誰も考えもしなかっただろう。哲学を貴君から、修辞学をキケロから、啓蒙思想をベールから学んだ学徒たる私が、いつの日か軍事の分野で世界を動かすことになろうとは。ヨーロッパの政治体制を突き崩し、諸国王の政治的打算を根底から覆すために、神が一個の詩人をお選びになろうとは。』オーストリア継承戦争後、シュレージェンはプロイセンのものとなり、軍服姿が様になった彼は「大王」と呼ばれるようになる。
この戦争中の1745年、フリードリヒ2世は、ポツダムにロココ調の離宮を築き、ヴォルテールを招き、フランス語で会話を楽しんでいた。当時の最大の知性といわれたヴォルテールは3年後に離れるが、彼と対等に議論できる啓蒙君主としての評価を得る。
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その後も大王は74歳まで生きた。マリア・テレジアの長子のヨーゼフ2世も、大王のファンでこっそり会いに来ている。大王は、プロイセンを強国にするには、産業を起こし、国民が一丸となって勤勉に働くことが必要だと知っていた。「王は国民の僕(しもべ)」に徹し、鉄鋼業や絹織物業などを順調に成長させる。それに比して弱体化したポーランドの内紛を利用して、第1次分割で領土も増やした。愛国と誇りの念を国民に残し、国庫を5倍にしての永眠だった。后はいたが、当然子供はなかった。弟が継ぐことを36歳の時点で決めていた。しかし14年後に病死。その大王の甥に当たる息子がフリードリヒ・ヴィルヘルム2世である。
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