正宗分のM高校3年担任時 ALTと |
今日も総論的な私の人生観を記しておきたい。高校時代の私などは、どんでもない奴だった。(笑)まさに疾風怒濤の青春時代であったわけだ。それが、大学に行ってから、多くの凄い先輩に「育て」られた。心底リスペクトできる先輩方であった。読書の習慣も同志社の先輩に鍛えられた。傲慢の戒めも立命館の先輩に鍛えられた。人情の機微の重要性もそうだ。あの先輩方がいなかったら、確実に今の私はない。まさに修行の時代、「育てられた」時代だった。
極めてラッキーなことに、現役で大阪市の高校教員の試験(後で知ったが100倍の難関)にパスした。ただその後が大変だった。教材研究に暗中模索で取り組むことになる。同時に、商業高校は若手のいい先生方が多く、教師としての資質を鍛えていただいた。よく怒られたし、心配していただいたし、熱い激励も受けた。ところが意外にクラス経営がうまくいって、望外の評価も頂いた。硬軟交えて「育てていただいた」のだった。
ところで、仏典のカテゴリーに、序文、正宗分、流通分というのがある。序文とは、前段階的な記載であり、正宗分は、その中心命題を語る記載部分、流通分とは、その命題を広める記載の部分である。私の人生の基礎的な人格形成の序分は、この大学時代と7年間の商業高校時代だと思っている。
教師は、自分の得意分野を伸ばす必要がある。運動が苦手な私は部活より、生徒会などのイベント運営の能力を伸ばすことが多かった。クラスなどでのミュージカルの制作やキャンプファイヤーなどの企画・運営である。失敗を重ねながら自分を鍛え、イベントで生徒を育てていったものだ。このイベントで育てるという教育実践は、その後も私のライフワークになっていく。
当然だが、次の工業高校時代の15年間に入ってすぐ正宗分に入ったわけではなく、その重なり合う時期もある。ただ、イベント運営などに関しては、工業高校時代から正宗分が始まっている気がする。何年も続けて文化祭の企画をさせていただき、イベントで生徒を育てている、という評価をいただいたからだ。イベントの成功は、すべて関わる生徒の成長で決まる。大学時代に先輩方から学んだ奥義であった。
進学校だったM高校では、イベントとともに、昨日エントリーしたM君らに始まる国際理解教育に強く関わった時期である。工業高校時代から始まったアメリカ研究にアフリカ研究が加わり、様々な知を求めた次期でもあるし、受験教育の分野にも携わり、社会科教師としての見識も飛躍的に伸ばした時期であったし、学校運営にも深く関わり中堅からベテランへの階段を登っていった時期でもある。まさに正宗分の9年間だった。
そういう視点で見ると、H高校の5年間は流通分だった気がする。これまでに蓄えたものをすべて出して、3年間の担任時は、毎年これ以上のクラスは作れないというほど充実したものになった。イベントで育てあげた卒業生を送り出した後は実に大きな空白が訪れた。マレーシアに飛ぶことになるのは、そういう新たな挑戦を欲していたからだと思う。マレーシアでの3年半は実に刺激的だったが、これまでの見識・経験を活かした、やはり流通分であったと思う。
四国での公営塾では、塾長という立場になった。若い講師陣をまとめる上で、彼らを「育てる」という言葉を発した時に反発を受けた。「私たちは生徒ではありません。」そりゃそうだと矛を収めたが、時代の大きな変化を感じた。その後彼らが、この「育てる」という言葉についてどう考えているのかはわからない。後に気づき納得していたかもしれないし、死語のように今も感じているのかもしれない。
ただ、私自身が良き時代の目撃者であることに改めて気付かされた、まさに分水嶺だったと思っている。
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