2018年8月18日土曜日

ゾルゲ事件内部文書の話

https://ja.wikipedia.org/wiki/
毎日新聞にゾルゲ事件で新聞統制を行ったという内部資料(司法省刑事局の課長のメモ)が発見され、国立国会図書館に寄贈されたとの報道がされたようだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180818-00000007-mai-soci

ゾルゲとコミンテルン支配下のスパイ網が逮捕されたのは、1941年10月。開戦直前である。言論統制があったことは常識的に理解できる。ところで、ここで、西園寺公望の孫である外務省嘱託であった西園寺公一(きんかず)の肩書きを削除するようにとの事項があった。首相を決める元老で政界の重鎮であり、その前年に死去していた西園寺公望への配慮以上に、外務省の責任・批判への大きな危惧の賜物であろう。

西園寺公一は、オックスフォードでマルクス主義者となったとされる。故に帰国後、宮内省入りを拒否している。脇の甘い近衛文麿は、外務省に入ろうとしたが不合格だった西園寺公一をもったいないと嘱託職員に採用させるが、嘱託という身分に不満があったようで後に辞職している。とはいえ、ヨセミテで行われた民間組織の会議である太平洋問題調査会第6回大会の日本代表団書記となり、尾崎秀実と出会う。その後、尾崎と共に近衛内閣のブレーンの一員となる。再度外務省嘱託となり、松岡洋右と共に、渡米。ヒトラー、スターリン、ムッソリーニとも会っている。西園寺公一は、この頃中国共産党を研究しており、ゾルゲ、尾崎とともに有罪(スパイ罪で死刑)になったが、交渉ルートとしての有用性が認められ、執行猶予がついたのではないかとされている。
西園寺公一 https://twitter.com/catnewsagency/status/965156176538222593
戦争中は警察の監視下に置かれ、1947年参議院議員(無所属)に当選。病気のため欠席が多く、次の選挙では落選。その後中華人民共和国成立後の日本側の民間大使的立場となり、中国本土へ移住。文革期には、反革命的な出自や劉少奇に近いという理由で事実上追放され帰国。帰国後は文革を礼賛。
私は学生時代に西園寺公一の文革礼讃の文章をリアルタイムで読んだ記憶がある。だが、近かった劉少奇を批判したり、華国鋒の四人組裁判時には江青らを批判、言論人としても変節が目立ち、右派からも左派からも批判されたという、極めて異質な貴族である。

ゾルゲ事件は、日本の近現代史の中でも極めて興味深い事件である。ゾルゲ人も、尾崎秀実も、そしてこの西園寺公一の人物像も非常に興味深いし、そういうスパイに囲まれていた近衛文麿も、見事に日本的な脇の甘さをもった貴族である。西園寺公一の変節も変節だが、戦後の近衛の変節も変節で、結局貴族人というのはよくわからないところがある。まあ、維新後、完全なまでに優柔不断だった三条実美よりはマシかと思う次第。(笑)

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