2013年7月14日日曜日

日本人に贈る聖書物語Ⅵ

日本人に贈る聖書物語全8巻も、いよいよクライマックスである。先日読み終えた第6巻は、イエスの受難の話である。イエスは、それまでの預言で、メシア(救世主)でしかなしえないと言われていた奇跡を次々に行っていく。①レブラという皮膚病患者の癒し②口のきけない悪霊に憑かれた者を治す③生まれつきのの盲人の癒しの3つ。さらにヨナという預言者の語った「復活」の奇跡を、死後4目経った弟ラザロに施す。さらにイエスは、預言にしたがって、過ぎ越しの祭りの日に、エレサレムで、十字架にかかる。そんな話である。最後の晩餐が、ローマ式で行われたことなど、へぇーということも多かったが、私の感想の大きな部分を占めるのは、「はじめにコトバありき」という、聖書における預言やイエスの「コトバ」の重要性である。このヨハネによる福音書の冒頭は、単純にコトバ=言語とはいえないらしい。コトバ=神であり、ロゴスであるとも言われている。いずれにせよ、この神の言の重みを実感する巻であった。(もちろん、ここに至る5巻の蓄積が必要であるが…。)

この巻には、キリスト者から見たユダヤ教徒の「リーダーコンプレックス」という話が出てくる。イエスが、数々の聖書における預言を実現していにも関わらず、彼らはラビ(ユダヤ教指導者)がそれを認めないので、自発的に自己判断を下せなかったと言うのである。この結果、これまでにも犯した許されない罪(出エジプト後カナンの地を目前にしながら40年間の荒野の放浪、預言者エレミヤの言をきかずバビロン捕囚)に続いて、以後2000年ちかいディアスポラ(離散)となるというのである。

私は、ユダヤ教徒でもキリスト者でもない第三者なので、どちらにも与しないが、少なくともアメリカ合衆国がイスラエルを常に支援する理由のひとつ、即ちイスラエルを護り抜くことで、ユダヤ教徒にイエスをメシア(=キリスト)として認めさせること(共和党のネオコンなどキリスト教原理主義者の主張)が、よくわかった気がした。

同時に、イエス受難時のユダヤ式裁判とローマ式裁判の複雑な交差によって、実際死刑に処したローマではなく、ユダヤ人に非難に向かった理由もよくわかったのである。この時の決定的なコトバ「その人の血は私たちや子供たちの上にかかってもいい。」は、次の世代までの責任を意味する。紀元30年頃の事件の罪が紀元70年に起こる(エレサレム陥落からディアスポラ)わけだ。聖書における「コトバ」は、あくまでも「ロゴス(明解なるもの)」なのである。うーむ。あらためて認識を新たにした次第。

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